戦後71年、アジア太平洋戦争の反省を語りながらも風化していく記憶・感情:なぜ国民国家は戦争に向かうのか?

日本やドイツは『遅れてきた近代国家』で、『民間市場の小ささ(国策の工業依存)・国民の貧しさ・国民教育(国家の為の人)・対欧米列強』で強い政府・権力が推進する帝国主義・戦争が不可避になりやすい面はあった。

天皇陛下、「深い反省」再度表明=終戦記念日 (時事通信社 – 08月15日)

平均的な現代人からすると、なぜあそこまで国家・元首(天皇)・戦争に一般国民があれほど熱狂し賛同したのか分かりづらい。国民教育やプロパガンダの影響もあるが、根本にあったのは『世界恐慌・アイデンティティ固定・国民の貧苦と格差』で、富国強兵・帝国主義の夢と一体化で自己イメージ・存在意義を拡張しやすかった。

貧しさや孤独、将来悲観は人間を惨めに弱気にする。近代国家の国民を一つに束ね外敵と権益を奪い合う戦争機械の役割は、『正義・強大・理想を体現する国家』に自己アイデンティティを重ね合わせることで『国民の平等・目的の意識』を高めてくれた。国の大きさ・強さが我の大きさ・強さとなり、個人は差異化せず同一化した。

アメリカとの太平洋戦争で国家滅亡寸前まで追いやられた日本は、敗戦で『国家幻想の崩壊』を思い知らされ、玉音放送で『神とされた天皇・神国の限界』を知った。これは戦前日本と戦後日本の自己アイデンティティと世界観の急激な転換を生み、戦後は『全体』より『個人』を重視する『そもそも戦争できない意識』が拡張した。

大日本帝国、特に1931年の満州事変後、1945年の敗戦までの日本は『国家・天皇の観念を絶対視し生命をも捧げる国民を増やす宗教国家』に近づいた。個人の生命や権利など国家全体の強さ・豊かさの幻想の前で塵芥も同じ、『個人(私)の自由・幸せ』などを追求できる社会も世論も経済力・娯楽も無かった時代である。

終戦記念日は余りにも大きな犠牲と損失を払い『国家・天皇(国体)のために教育され奉仕してきた国民』が、日本を滅亡させるほどの圧倒的な力を持つアメリカを前に、『国家幻想・天皇の神国の限界』を思い知らされた日だ。反省・平和教育をするまでもなく疲弊しきった国民は厭戦とトラウマで二度と戦争をしたくないとなった。

戦後71年、戦争のトラウマと国家幻想の崩壊を当事者として体験した世代の多くは鬼籍に入り、その記憶と感情は風化しつつある。現代が戦争前夜に近づいたという声もある。戦争が起こるのは『個人(私)の自由』があっても使い道がない時代になり、『皆が一つの集団幻想に酔う・怒る条件』が整った時であろう。

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