植村直己の登山・極地探検とデナリ(マッキンリー)での遭難死:次の目的地を求める人類

冒険家として知られる植村直己(1941-1984)は、1984年の冬季マッキンリー(デナリ)の単独登頂後に行方不明となり死亡認定されたが、1980年代というのは未踏の高峰・密林や過酷環境の横断(縦走)という『人類の限界挑戦の課題』が終わりを迎えようとしていた時期であった。

人類が登頂していない世界の未踏峰が消え、人類の能力で横断・縦走に成功していない過酷環境の土地が無くなりかけていたのが1980年代半ばであり、植村直己自身も『次の冒険の宛先』を見失いかけていた。

次の冒険として北極点到達に続く『厳冬期のエベレスト登頂・南極点単独犬ぞり探検』が計画されてはいたが、エベレストは竹中昇の死去・悪天で断念し、南極点もフォークランド紛争勃発で軍の協力が得られなくなって諦めていた。

北米大陸最高峰のマッキンリー(6,190m)はアメリカの大統領ウィリアム・マッキンリーにちなんだものだが、2015年にアラスカ先住民が呼んでいた元々の山名である『デナリ』に変更されることになり(こういった一度は土地の支配者による命名が為された後に、再び原住民の元の呼称に戻るという名前変更は近年では政治的正しさの影響で多くなっているようだ)、マッキンリーという慣れ親しんだ山の名前は公式には消えたことになる。

植村にとってマッキンリーは既に1970年に登頂した山であり、この時に世界初の五大陸最高峰登頂者にもなっていたが、厳冬期に敢えて登ってみるという以上の意味合いはなく、この登山そのものは植村の個人的な意思に基づくもので、スポンサーはつかず注目もされていなかった。植村は自分自身の冒険に区切りがついたら野外学校設立を目指してもいたので、インターバル的なマッキンリー登山(厳冬期の死亡率はエベレスト以上に高い山だが)で遭難死したのは運命ではあった。

人類の極地探検史はアムンセンとスコットの南極点到達、ピアリーの北極点到達、白瀬矗中尉の南極冒険など20世紀初頭がピークであり、世界の高峰登山史も1950年代のエドモンド・ヒラリーのエベレスト初登頂や今西寿雄のマナスル初登頂が『生身の人間が8000m峰の頂きに立てる事の証明』としてピークであった。

地球上に人類が初めて足を踏み入れる冒険対象の土地はほとんどなくなっているが、植村直己がデナリで遭難死しなかったとしても、南極大陸の単独犬ぞり横断の冒険が最後の挑戦になっていた可能性はある。ラインホルト・メスナー(イタリア)が人類で初めて『8000m峰の全14座登頂』を達成したのは1986年だが、植村の冒険の興味は既に世界の高峰制覇から極地の探検・横断に変わっていたのでそれとの競争もなかっただろう。

北極点単独行には本多勝一をはじめ『空から何度も補給を受けた・食糧だけでなく犬を使い潰して犬まで補給を受けた・帰途を犬ぞりや徒歩ではなく飛行機を使って帰った(疲労後の帰り道を飛行機に頼るなの型のイモトアヤコと同様の批判が既に植村直己の時代にあったのである)』などの批判的な意見も多いが、1980年代以前の登山評論やエッセイは『人類初の挑戦・歴史的な意味づけ・人類の能力の証明』に比重を置きすぎているきらいはある。

過去に誰かが既に行けた場所や達成した記録であれば、二番煎じや陳腐な挑戦として全く評価しないというのも極端だなと思うが、1980年代が『人類のフロンティア到達の冒険・探検の歴史の終わり』であった事を考えれば、植村直己の冒険・挑戦も『初めての試み』にすることが難しい問題が少なからずあった。

何より後年の植村自身は『人類初』にはさほどこだわりがなかったように見えるし、本気で人類初の到達や歴史的壮挙の実現を目指すのであれば、既に何十人もが実行していた極地探検のバリエーションよりも(植村の北極点からグリーンランドの単独犬ぞり縦断は人類初とされるので当時はその点のほうが北極到達より評価されたらしいが)、ラインホルト・メスナー以前に実現した人間がいなかった8000m峰全14座の登頂に全力を傾注したであろう。

植村直己の高峰登山・世界放浪と世界冒険の過酷な旅というのは、象徴的な意味で『生身の人間の冒険・探検の課題の減少』を示している。

植村の死後の探検史にしても高峰登山にしても『純粋な意味での初登頂・初到達の目的地』をほとんど失いながらも、近代前後からの人間は『現時点での足踏み(未踏地点の放置)』に耐えられない進歩史を歩まされていて、どこか次の目的地を探さずにいられない心性も持っている。

どこまで行けるかという肉体的・地理的なチャレンジの限界がピークを迎えた観があるとはいえ、その後には精神(知能)を駆使する科学的・技術的・経済的なチャレンジが『情報・宇宙・生命』に向けられていくことになるのかもしれない。

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