田舎より都会のほうが歩く傾向:本多勝一の登山評論(山に憧れる都会人)からの思索

田舎は車社会で歩かない、都会は駅・バス停から歩くということだが、歩数の差は大きなものではない。本多勝一の登山評論に『登山とは都会的・文化的現象である』の言葉があるのを思いだした。

田舎より都会の方がよく歩く 3万4千人の歩数計を分析

山国の田舎に育った人は生活のために山に入るかもしれないが、都会で育った登山家のように実利なく危険を冒して山登りすることに特段の興奮・意味を余り見出さないという。実利的ではない余分なことに意味・価値を見出しのめり込むのは都会人で、『車移動が楽』だけど『敢えて歩く意味・面白さがある』と文化的に解釈する。

学問・登山・政治・芸術などは典型だが、高度の文化的行為・教養趣味は概ね『実利的でない・生活に必要ない・単独で役に立たない』ものであり、一定の基礎知識や知的感受性がなければ『無意味で無駄なこと』に過ぎない。長距離歩行に徒労だけでなく意味や面白さを見れるのはかなり文化的・都会的なセンスでもある。

本多勝一の登山評論では、実利のない登山も全共闘(政治運動)も生活のための労働に明け暮れているような労働者層は無関心で、むしろ仕事をしてもしなくても良いような『良家のお坊ちゃん・お嬢様』がのめり込みやすいというが、知識教養だけでなく単純に時間的・労力的な余裕の有無がセンスや興味を左右することがある。

衣食足りて礼節を知るとも近似するが、『実利性への集中度合い(実利的でない役に立たないものへの遊び・興味の薄さ)』というのも、知識教養の多寡や教育環境・交友範囲と合わせて経済生活・精神状態の余裕と密接に関わっている。生活と労働に追われ過ぎると、文化的・教養的な分野や解釈に意識がどうにも向けづらくなる。

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