ヒトの生殖適応度(子孫の数)の結果にとって『モテる・モテない』はあまり重要ではない:個人の幸福追求・納得と生殖戦略とのズレの深まり

タイトルは厳密には、モテない男の『生存戦略』ではなく『生殖戦略』とすべきであるが、生存戦略とは個体の生存確率を上げる方法であり、生殖戦略とは異性を惹きつけて子孫を残す生殖確率を上げる方法である。

自然界の動物を例にして、弱肉強食や優勝劣敗の生殖戦略が成り立つかというと、ヒトでは特に自意識が肥大した近現代のヒトでは『結果重視の生殖(子孫を残す数)の優先度が必ずしも人生の最上位になるとは限らない』という意味で当てはまらない部分が多い。またヒトの男女関係は結婚制度の縛りがなければ『一夫多妻・乱婚との整合性(一夫一婦の平等主義の皆婚が自然ではない要素)』も持つが、『わずかな優越者(支配層)だけが子孫を残すハーレム型』にまではいかないだろう。

そもそも論から言えば、人間の男女の性選択は『男性の財・権力の庇護と女性の性(出産含む)・美の慰撫を交換する非対称的な原理』から始まっており、その基盤には常に『階層・身分・家柄・地域(居住地の周囲)による分相応な相手のカテゴライズ+結婚・出産の社会的強制性』があったわけで、単純な美貌・能力・コミュニケーション効果を比較するような性淘汰が、個人ごとの優勝劣敗の結果としてヒトにかかった時代はほとんどないのである。

美人やイケメンばかりが大量の子孫を残してきた時代はないし、権力者や富裕層だけしか子孫を残さなかった時代(権力・財力のある男の子孫の数は多かったかもしれないが、強い権力のある天皇家・将軍家・大名家でも生物学的原因などで子の少なさが問題になった例は多い)、労働者・庶民階層・貧者が子供をまったく作らなかった時代もない。

ここ数十年間の身近な状況を見るだけでもそれは明らかであり、結果としての子孫の有無や人数には、『安定所得層(公務員・大企業社員など)ほど婚姻率・有子率が高い統計的な偏り』はあっても、『厳格な意味での個体ごとの弱肉強食・優勝劣敗の原理』は強くは働いていない。

貧困層・犯罪者・病者・非美形の者でも子孫は残し得るし、実際に残しているわけで、単純に『不特定多数にモテる要素や条件を持たない個人が生殖戦略に失敗する』というのは人間社会には当てはまらない。

そもそも大多数の男性は外見・性の魅力がそれほど強くないので(進化のプロセスにおいて男性の外見・性の魅力が財力・権力・労働といった生活力よりも軽視されてきたので)、何もしなければ若い時期でも不特定多数の女性(特に大勢がいいなと感じる競争のある好みのタイプ)からはモテないのが普通である。

学生時代にクラスの男性の大半が、色々な女性にモテていた記憶がある人はいないはずで、一部のイケメン(良い雰囲気のある男含む)やコミュニケーション巧者、コミュニティ内で影響力のある人を除けば、女っ気がない男(性的魅力の部分で目立たない男)のほうがむしろ多く、何もしなければ何も起こらない(好みの異性が向こうから熱心に誘ってきたり付き合って欲しいと言ってきたりなどはまずない)というだけなのである。

男性と女性の性的行為をしてもいいと思えるストライクゾーンの範囲は10倍以上は違うとされ、男性は絶対に性的に受け付けない女性の範囲は狭いが(少し笑顔が可愛いとか雰囲気が柔らかいとか自分に合わせて話してくれるとか、ファッションが好みとかでも性的な許容度が上がるが)、女性は交際をしたり結婚をしたりする相手でさえも、『性的な好み』の部分で完全にストライクゾーンであるかは分からない。

日本人は特に子を作った後のセックスレス率や性愛での相手への関心喪失率は高いが、はじめからそれほど相手との行為に乗り気でない人も含まれる。

経済力・職業をはじめとする人生設計や子供の生育環境によって、触れられてもいいストライクゾーンを心理的に拡張していることが多いからで、生殖戦略のかなりの部分は『子供を持つことの優先度の高さと実際の決断・行動(そのためには妥協・譲歩したり苦労・忍耐したり現状に折り合ったりできる)』が占めている。

だから色々な条件や理由をつけたり明らかに自分のレベル(能力・魅力・年齢など)と釣り合わない異性を探し続けたり、『可能な範囲の中での決断・行動・負担享受』をしない人は、相対的にまずまずの能力や魅力があっても自ら『カップリングのミスマッチ(その相手・状況・未来予測では納得しない)』や『子供以外の活動の優先度の上昇』を起こすので生殖(子供)には結びつかない。

だが、それのほうがむしろ良いという個体さえいるのが、『自意識・納得感・幸福追求で生きるヒトの特殊性(本能を遮断することさえある自我・行動と価値判断の複雑化)』であり、生物界にある『生殖戦略の最優先性』が『社会共同体の結婚・出産の強制力の低下』によってかなり揺らいでいるのである。

その意味で、人間の今までの歴史における生殖戦略というのは、『個体の性欲の本能・自分が子孫が欲しい欲求』以上に『社会共同体の強制力と一夫一婦制の拡大・地縁血縁における世間体・子孫を作らないことに対する偏見や低評価』に支えられてきた側面があり、個人主義・自由主義・情報化社会が強まるにつれて生殖戦略の優先度が落ちやすくなった。

実際に子供を残すか残さないかは、美や能力でモテるかモテないか以上に『既存の社会・経済・生活を否定せずに適応的に生きているか』や『自分と相対的に釣り合いそうな異性に深くコミットしていけるか(明らかに自分を受け容れそうにない客観的に合わない相手ばかりにいっていないか)』に規定されていて、客観的な魅力・能力が高ければ高いほど子孫の数が多くなるということはない。

本人同士が納得・同意ができて最低限の経済基盤があれば、他人から見た魅力・能力がどうであっても、二人の間で子供の数が多くなることは有り得るし、主観的に楽しくて幸せな家庭にもなることは多い。

あれこれ迷ったり条件をつけずに、自分を選んでくれる相手を選んで短期で決断することができ、子供を増やすことによる経済負担や将来不安などにこだわらない何とかなるさの楽観主義があれば、子供各自の主観的幸福度や経済生活・職業等がどうなるかは分からないとしても、生物学的観点における生殖適応度は『子沢山』としてかなり高くなるだろう。

高度な幸福追求や他人との差異、慎重なリスクヘッジなどは人間だけに特有の行動原理であって、自然界をモデルにして自分を受け容れてくれる相手ととにかく子孫を残せば生殖適応度が高いという考え方でいけるのであれば、多少、貧乏になったり不幸になったり親が恨まれたりしても、子孫を多く残したほうが良いという判断になるが、現代人は一般的にそういった質より量、プロセスより結果、自意識の幸不幸より生物学的な解釈という判断に徹底することが難しいのである。

逆に、相対的に高い魅力・能力があると社会一般に見なされる美人・イケメン・社会的な成功者でも、本人に納得・決断・子孫継承の動機づけが弱くて、相手・環境・状況を適切な時期に選びきれなければ(あるいは敢えて選ばずに自分がやりたい仕事や活動のほうを生殖より優先させれば)、最終的な結果として子孫が少ないかゼロになることも十分に有り得る。

結果としての子供の数だけを重視するなら、経済力がなくても性的魅力が多少低くても将来不安がどうであっても子供は産めるはずで、実際に産まれているが、現代人は出産の無計画性や子供にとっての不利益の予測(生活・教育の経済基盤のなさ)、自分が納得できないカップリングをかつてないほどに避けたがっている人が増えた。

そのため、生殖適応度は半ば自発的かつ自己抑制的に下げられている面(何が何でも自分の子供を持ちたいと考えてそれを実行に移すような本能が認識・知性・情報によって変容させられている面)が大きい。モテない男の生殖戦略をどうするのかは結果だけを言えば簡単な話で、『結婚・子供の優先度を最上位に置く+』

端的には、『社会共同体・家族や地域・習慣や伝統』のとにかく子供を産ませようとする半強制力が失われつつあり、自分・子供の幸福(生活安定・楽しみ)の予測や納得できる人生のプロセス、自分の本音の興味・欲望に強くこだわるから、現代人はむしろ本能的にも『自我肥大・価値の個人化(情報・娯楽の氾濫)・リスク回避(常識人にとっての子育てに対する責任・経済負担が過去にないほど重くなった)』で生殖適応度が下がりやすくなってしまっているように思える。

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