娑婆(自由な社会)よりも刑務所(管理された施設)のほうがマシだと思う累犯者:自己責任の現代社会における居場所・関係性・能力活用

高齢で社会に居場所(働く場所)がなく承認される人間関係もないという人たちは、数十年以上にわたり社会参加していない60代以上の高齢のひきこもり・無職の人が急増しているニュースとも重なる。

■前科12犯のホームレス 出所しても「うれしくない」

前科・累犯も含めて『広義の社会不適応・無収入(無資産)』の状態が長期化して、自力での立ち直りがほぼ不可能になると、家・親族に蓄え(自分の過去の蓄え)がなければ、生活保護になるか犯罪で糊口をしのぐか飢え・病気(福祉・医療からの排除)で死ぬかというところに追い詰められやすい。

前科(賞罰)のハンディキャップと合わせ、年齢が高くなるほど再チャレンジが難しい社会・雇用の仕組みもあるが、日本人の多くはサラリーマンとして一つの会社・勤め先に帰属して『やるべきとされる与えられた仕事』をこなして給料を貰っているので、『(会社の看板・役割を抜きにして)自分単独で仕事を作ったり自分の能力や制作物を売り込んだりする能力』というのは基本的に低いか全く持っていない。お金も特別な能力も人脈もなく、経済社会に身一つで投げ出されれば、平均的な人材のサバイバル能力は低いのが普通である。

『会社がどこも雇ってくれない状態(誰も仕事を与えてくれない状態)』になると、自力で最低限の衣食住を賄う程度の金額を稼げる能力や意欲、アイデアの実行力(仕事を取ってくる力)がある人は思われている以上に少なく、会社(給料を支給してくれる事業体)に勤めていなければあっという間に貧窮・孤立状態へと転落しやすい。

雇われずにフリーランスや自営業でそれなりに食っていける人はごく一部であり、そういった人も若い時期には会社員などを経験してスキルや人脈、ノウハウ、顧客リストを作っている。仕事内容にもよるが前科があることが露見すれば、取引先からの信用を失って仕事を断られる恐れもある。

雇われずに食えている人も、何もないゼロから独立したわけではなく『一定以上の下積み・自分の能力や技術の積み上げ』が効いている。高齢で刑務所から出所して手持ちの資金も特別な能力もない人(極めて雇われにくい条件が揃っている人)が、数日間のうちに取り掛かれて、すぐにお金になる仕事というのはほとんどないだろう。

政治や社会制度、社会通念の多くは、50代くらいまでは年齢が高くなるほど所得が増えたり職位が昇格したり、結婚して家庭が充実したりで、人生設計・社会的地位が安定してくる(自分のことを大切に思ってくれていざという時に支えてくれる家族も増える)という新卒採用からのキャリアの積み上げを前提にしているが、実際は今の高齢者でさえも貧困層・低年金層・無退職金層の割合が高くなっているように、『政治・制度がモデルとする中途での瑕疵がない(約40年以上の正社員・公務員の勤務で退職金・相応の年金額があり家庭も上手くいっている)平均的なサラリーマン』からこぼれ落ちた人というのは昔から多かったのである。

現代は長期安定雇用や中流階級・皆婚の家族形成が崩れており、スタート時点で躓いたまま不適応に近い状態で人生を長く浪費してしまう人、仕事や結婚の中途で挫折して貧困・孤立に落ち込み抜け出せない人が増えている。

何度も同じような犯罪を繰り返す累犯者には、軽度の知的障害・発達障害を持っていて診断されないまま大人になった人も多く含まれるという説もあるが、『前科者・粗暴者・集団適応(仕事能力)が極端に低い人・他者と協力できない人・集団規範を守れない人』は、現実問題として自腹を切って支えてくれる家族・仲間(帰ることのできる家)がなければ、競争的な経済社会の中に自分の居場所・働ける場所を見つけることがかなり難しい。

そもそも前科がなくて高卒以上の学力・対応力・理解力があり、人並みのコミュニケーション力(他者と合わせながら協力して仕事をする能力・場面や相手に合わせた適切な言葉遣いと態度でやり取りできる能力)がある人でも、希望に叶うような条件の雇用は少なく、自分・家族の必要限度の衣食住を賄ってちょっとした娯楽・息抜きを楽しむくらいの収入しか得られないことは多いのが現代の実情でもある。

前科がなくてやる気があれば、清掃・警備・店員(高齢客の多いお店)・管理人・軽作業などのアルバイトを探せば何か仕事はあるだろうが、学歴も職歴も職能も資格もない高齢の前科者となると、仕事を得ること自体のハードルが著しく高く、何件も面接を受けて回る(面接のための最低限の身だしなみを整える)お金がそもそもなかったりする。

記事にある『前科12犯』の60代男性は軽犯罪の数こそ多いが、社会・企業・人間関係に居場所がなかったり居場所を作るための努力・工夫ができなかったりする人たちにとっての最後のセーフティネットが『刑務所』になりやすい悲しい現実の現れである。

『娑婆(社会)』よりも『刑務所』がいいという人は、よほど困窮して孤独に苦しんでいる人でもない限りほとんどいないが、『自由の有効な使い道』がなくなったり分からなくなったりした人がどうにもならなくなれば、刑務所に戻りたくなるということだろう。

現代人の多くは『自由』を非常に大きな価値と見なしているため、『生活全般が監視・管理されて不名誉な評価をされる刑務所』には絶対に入りたくないと思うのが普通だが、自分が社会的・経済的・対人的に何の力も持っておらず、手に入れたいものを自助努力では何ひとつ得られない(他者からも尊厳のある人間として扱ってもらえない)と観念した時には、自分から自由を捨ててしまう人も出てくる。

極限状況まで追い込まれてリカバリーが不可能と諦めれば、自由どころか生命さえ捨ててしまう人もいるわけだが、累犯・刑務所以外に生き抜けそうな術がないという考え方にはまる人のケースでは、刑務所暮らしを望む自由の放棄の前に(転落した自分自身を許せず現実を受け容れられずに半ば憤死の如く)生命を捨ててしまう自殺問題も深刻なものになっている。

『自由があっても極貧・空腹・悲惨・孤独な状態が続くのなら娑婆にいても意味がない(不自由でも屋根と食事があって看守・囚人もいる刑務所のほうがマシ)』という刑務所に戻りたい心理は、大勢の人が自由を謳歌しているように見える豊かで平和な現代であればこそ、余計に娑婆の居心地の悪さ、自分の居場所のなさが煽られてしまう所もあるだろう。

施設介護に近いような、一定の条件を満たした人が本人の年齢・体力・能力に見合った労働義務をこなしながら入所できる『最低限の衣食住が保障された施設』のようなものの要請が今後ますます高まってくると予測される。自己責任・競争原理が強調される世知辛い現代におけるフロム的な『自由からの逃走(自由の有効な使い道がない・自由な個人はバラバラになって無力感に陥る)』の変形として、『フロムのいうファシズム化(政治権力との一体化・自分たちを不幸にしたと見なす仮想敵と戦う右傾化)』だけでなく『刑務所の福祉施設化(入所者・累犯者の高齢化)』を考えることもできる。

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