映画『GIVER 記憶を注ぐ者』の感想

総合評価 85点/100点

すべての人間が幸福に満たされ、すべての人間の悪意が根絶させられたユートピア(理想郷)は実現可能かという『ユートピア論』は古代から考想されてきた。

古代ギリシアではプラトンが哲人政治による賢者独裁を唱え、古代ローマではユリウス・カエサルが世界をローマ化して法の支配に従わせようとし、古代中国では儒教的な君主・士大夫の徳治主義(王道政治)が勧められ、中世ヨーロッパではキリスト教信仰を背景に千年王国が夢想され、ムスリム圏ではアラーに完全に帰依することによって天国を夢見たが、いずれも支配階層の限定的なユートピアの陽炎を生じさせただけだった。

近代のユートピア思想は、史的唯物論の必然性と科学的社会主義の合理性を自称する『マルクス=レーニン主義』が、共産党宣言・共産主義革命によって大衆(労働者)のためのユートピアを建設しようとした。だが、人間本性に逆らった計画経済・結果平等の理想は反対に『共産党独裁による収容所国家・思想統制・生産力停滞の悲劇』を招き、貧しい平等と思想・表現の自由のない味気ない窮屈な世界を作り出しただけだった。

『GIVER 記憶を注ぐ者』は近未来に誕生した“コミュニティ”と呼ばれる理想的なユートピアにまつわる思考実験的な映画だが、物語のコンセプトや理想の背後にある犠牲を描く世界観は貴志祐介のファンタジー小説『新世界より』にも似ている。

ユートピアであるコミュニティには、飢餓も貧困も格差も苦痛もなく、個人間の差異と自由意思の選択肢を最大限に排除した『環境管理・社会慣習に無意識に従う均質的な個人』が完全平等主義の世界で何の不満も持たずに暮らしている。

人間はその本能や感情、自由意思に従えば、不完全な世界を作って必ず競争・戦争・犯罪・身内贔屓・怨恨・嫉妬・性犯罪などの問題を引き起こすため、人類は過去の人類の感情を伴うすべての歴史を抹消して、義務付けられた薬物服用で感情を抑制している。

男女の恋愛・性行為も存在せず、家族も血縁にこだわらない擬似的なものであり、家族であっても裏切られた時に悪意に転換する恐れがある『愛情』を語ることは禁忌で、『一緒にいて楽しい』などの適切な言葉に置き換えるように教育されている。あらゆる個人と個人の差異が縮小され削除されており、人と人を比較してどちらが優れているか劣っているか、どちらが好きか嫌いか、どちらが得をして損をするかなどの感情的・利害的判断そのものが、人類の争いを生み出す根本原因になってきたとして禁止されている。

未来の独裁主義のユートピアを題材にしたクリスチャン・ヴェール主演の『リベリオン』でも、感情を抑制する薬を義務的に飲ませられていたが、欧米人の想像するユートピア建設の最大の障害は『感情(特に愛憎)』になりやすいのだろう。『北斗の拳』の“愛など要らぬ”の聖帝サウザーみたいな発想ではあるが、状況が変化した時に、愛情の裏にある執着・憎悪が強まった結果起こる犯罪・悲劇は、古今東西で繰り返されてきた人間の業のようなものではある。

“GIVER(記憶を注ぐ者)”と呼ばれる一人の選ばれた人間だけが、過去の人類の記憶をアーカイブ化して保存しているが、喜怒哀楽の感情のある生活の魅力とリスク、人類が犯した過去の戦争・犯罪などの残虐行為は、コミュニティの永遠の安寧秩序を維持するために封印(隠蔽)され続けている。コミュニティ内部で、今を生きる人間には犯罪者は一人もおらず、社会に適応できずに逆恨みしたり、他者を傷つけたいという悪意そのものが殆ど生じることがない。

三人の幼馴染み、ジョナス、フィオナ、アッシャーが中心になって物語は語られる。一定の年齢に到達するとコミュニティを制御する長老委員会からそれぞれの人の性格・適性に見合った職業を指定されるのだが、フィオナが養育センターでの乳幼児の養育係、アッシャーがドローンによる連絡・監視係に任命されても、ジョナスだけがなかなか職業を割り当てられない。遂に最後の一人になったジョナスに言い渡された職業は、“RECEIVER(記憶を受け継ぐ者)”というコミュニティにおいて最も重要な役割の一つとされるものであった。

レシーバーとなったジョナスはギヴァーの男と面会して、人類の記憶と感情体験を段階的に受け継いでいくことになるのだが、長老委員会がジョナスに期待しているのは『人類の記憶が完全に途絶えないようにすること+レシーバー以外の人間が過去の人類が持っていた強い感情やリスクのある興奮に触れないようにすること(過去の人類の殺人や戦争、怨恨の記憶を学ぶことによってレシーバー自身がコミュニティのために過去の記憶すべてを一人で背負って封印すること)』であった。

しかし、ジョナスはギヴァーの男から人類の感情・記憶(愚劣・残酷ではあるが歓喜・充実感も多かった過去の人の世界の歴史)を受け継いでいくにつれて、『フィオナに対する恋愛感情』と『あらゆる苦痛と争いが排除された平和・安全なコミュニティの完全秩序の味気なさ・怪しさ』を自覚し始めてしまう。

恋愛や親密なスキンシップは禁止されており、コミュニティはドローンや監視カメラで常に監視されていて、不適切な行動をすれば即座に警告を受けるのだが、ジョナスはフィオナに対する気持ちを抑えきれずに、フィオナにキスをして今までにない感情の高ぶりを味わい、フィオナにも義務づけられている感情抑制薬を飲まないように言う。

更に、ジョナスがいつも可愛がっていた赤ちゃんの弟が、ある日突然、自宅から姿を消してしまう。自分の子供が急にいなくなったというのに、両親は普段と同じで何も悲しんだり混乱したりしている様子もない。養育センターで働いている父親は、赤ちゃんの弟はコミュニティの発育基準を満たせなかったので、コミュニティの規定によって『解放』されることになったという。

解放というのは実質的な『殺人(安楽死処分)』であり、個人間の差異を縮小したコミュニティの完全秩序は、健康で美しく障害のない子供たちを残していく優生学的な人間の取捨選択によって成り立つ裏のシステムを持っていた。このコミュニティの基準を満たす優れた人間だけを残していくという間引きシステムは、貴志祐介の『新世界より』にも採用されているが、人間社会の持つさまざまな倫理と現実の矛盾や全体(理想)のための犠牲(必要悪)のメタファーとして効いている。

コミュニティには他者との差異に悩んだり嫉妬したりするメンバーはいないが、それは優生学的な発育・形態・能力などの基準で生命の選別が行われているからである。コミュニティには初めから『殺人』という言葉も概念もなく、コミュニティの安全・繁栄のために排除しなければならない人間への対応のことを『解放』という利他的な概念に置き換えて表現している。

実質殺人の解放を担当するジョナスの温和で誠実な父親には何の罪悪感やためらいもなく、その人(子供)を救うために決められた手順で作業をしているだけというのがまた恐ろしい。ジョナスは解放の時が迫っている弟を養育センターから取り返して、コミュニティの人間の記憶と感情を奪っているシステムを破壊することを決意するが、そのために誰も出たことがない守られたコミュニティの外の世界に踏み出していく。

自由と感情のないコミュニティの味気ない世界を『モノクロ映像』で表現し、ジョナスが生き生きとした感情を感じ始めてから、世界にカラフルな色をつけて『カラー映像』に転換させていく手法は面白かった。『完全なユートピアのために支払う対価・犠牲』や『人間の感情・記憶・自由意思の持つアンビバレンツな価値』という大きなテーマ性がありながら、約90分の短い上映時間にコンパクトに収めているのも良かった。

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