人間はなぜ働くのか?:労働の起源と近代の仕事の変化からの考察、考えすぎる現代人はなぜ子供を産まなくなってきたのか?

○人類の労働の起源は「狩猟採集・農耕牧畜・手工業」にあるが、財の蓄積によって組織・身分・官吏が生まれ労働は自然な生存の必要から離れ、人の迷い・悩み・自意識と関わり始めた。

なぜ人は働くのか?――1位「生きていくため」 3人に1人は仕事が「嫌い」と回答 (http://mixi.at/agznDSR、10月28日)

原始時代の人間にとっての労働は正に動物としての生存本能と直結しており、「今日働かなければ食べるものがない自然界」では、狩猟採集をするしかない。常に飢えとの戦いで他にやる事もない(食料探しに奔走しても20代で死んだ)。前近代の人間も身分制と労働が結合していて「なぜ人は働くのか?」の疑問は弱かった。

人間の労働意識に決定的な転機をもたらしたのは「貨幣経済・近代化・技術革新・生活水準の向上と学歴競争・庶民の精神的貴族主義」だが、人間が磐石な生産基盤を持つ文明社会と身分・階級・私有財を構築し始めた辺りから、人は「自然界で家族・部族の単位で食べ物を探す労働」から離れ、誰かの下で働く労働にシフトした。

近代化とは「国民意識・軍事・金銭・技術」が急速に発達したり肥大したりする変化だが、近代化と貨幣経済によって農業経済の「家族単位で食べ物を作ったり取ったりするための労働」から「上下関係のある組織(所属する会社組織にも権威・収入・信用などの格差がある)に雇われてお金を稼ぐための労働」にシフトした。

人が働く理由の根本は「生きるため」と「人(所属集団・社会)に認められるため」だが、現代と近代以前では産業構造の転換もあって同じ「働く行為」でもその目的と中身が変わってきた。第一次産業や第二次産業の「モノと向き合う仕事」は減り、年功主義の形式的平等も減り、個人単位の適性・能力・意欲の差が大きくなった。

なぜ働くのかの理由は「生きるため・お金を稼ぐため」という即物的な理由もあるが、「人に認められるため・日常の居場所や共同体を作るため・誰かの役に立ち喜ばせるため(自己の必要性の自覚)」という心情的な理由もあるだろう。「やりたい事や長所で稼いで生きるため・権力や財力を得るため」など野心的な理由もある。

○「親の産みたくなかった」と「子の産まれたくなかった」は育児放棄・無責任や家族破綻の兆候だろう。冒頭の親子間殺人は「子供を奴隷化しようとした親の自業自得な悲劇」ではある。 — 子どもが親を刺す事件も「親を殺したい」虐待された子どもたちの本音と実態 (http://mixi.at/ajthNs8、12月08日)

しかし現代ほど子供を産むことの「意図や目的・責任感」が重大視された時代はかつてなかった。「子供を幸せに育てる自信がないなら産むべきではない・子供のために生きられないなら産んではいけない(まして子供を産みたくなかったとか自分のために働いて金を入れろ等は論外だ)」の価値観は少子化の一因でもある。

現代人は合理的になり過ぎたため、「親が子供を望まなければ(望んでなくても性行為をしなければ)子供はできないという科学的な因果関係」を絶対視して、親の意図と行為からの「子育ての責任レベル」が非常に高くなった。「コウノトリが…意図と行為と関係しない授かりもの」の考え方が本音の部分で出来なくなってきた。

例えば、昔は「中卒で働くのが当たり前・貧乏な家の子は親にお金を仕送りして当たり前」であり、こういった価値観は今の開発途上国にも残り、日本にも東南アジアなどから大勢の出稼ぎ者が来て本国の親に仕送りしている。だが先進国では逆に「貧乏過ぎるのに産むのは可哀想・無責任」と正反対の発想が増えやすい。

冒頭の子供を小さな頃から働かせて収入を巻きあげる親は、現代日本では虐待者・鬼畜と非難されるが、昭和中期頃までは虐待の有無は別として、子供を「家や親のための労働力・親に孝行すべき存在」と認識して大勢の子供を作る親の比率は今より格段に多かっただろう。子供の幸福追求がメインで意識された育児の歴史は短い。

現代人は合理的かつ倫理的になっているが、その多くは(格差・貧困・虐待などの)現実との矛盾を抱え、「不幸な子供を作らない・子供に現代における最低限の環境と教育を与える」を実践しようとする人が増えれば、どうしても少子化になりやすい。親になる世代が中流階層でなくなっており子供に注げるリソースも減少傾向だ。

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