「人間関係リセット症候群」に陥るのはなぜなのか? 相模原障害者殺傷事件を起こした植松聖被告の深刻な心理的問題

○人間関係をリセットしなくても、残る人は残るし離れる人は離れる。色々な人に定期的に連絡して会い続けるというのは、誰にでも出来ることでもない。

「人間関係リセット症候群」に陥る理由 「ある日突然ダムが決壊したようにオーバーキャパになって全部捨てる」 (キャリコネ、 http://mixi.at/a23ODBG)

強固に見える人間関係も、仕事・結婚・親族といった『絶対にしなければならない活動・生活・帰属』に支えられている要素が大きい。自分の意志だけで人間関係を選ぶならば、のめり込んでいる時期の異性などを除き、頻繁に自分から会いに行きたくなる相手はそう多くないかも。仕事並みに毎日行くとなったら多くは音をあげる。

そう考えたら、仕事や雇用、学校の持つ『毎日絶対に8時までに人を来させる習慣や義務』は、生半可な人間関係より確実性が強く、人によっては何十年もきっちり通勤・精励する。友人関係の約束でいい加減な人でも、仕事はきっちりすることも多い、人を確実に動かす力は関係や気持ちより仕事・結婚・生活が強いか。

話題がずれるが、AV強制問題でも、『ナンパ・個人の性欲に応えるセックス』は絶対NGでも『有名になるため、お金のため』なら受け入れることのある成功欲求の強い女性の心理を逆手に取った面がある。男でも女でも個人間の要求だと無茶な内容は断れるのに、会社や仕事、契約になると脳のモードがおかしくなる人がいる。

○国家財政や政治制度が閉塞した時にナチスドイツで優生思想が力を持ったが、植松被告は「自分の人生・労働の不満」を「国家社会のコスト問題」と結びつけ殺人の正当化を図ったに過ぎない。

「別施設襲撃も計画」=殺害方法を謝罪-接見で植松被告・障害者殺傷1年半 (時事通信社、 http://mixi.at/a22FJ09)

現代日本では「保護されない健常者・労働者で不遇不幸をかこつ者」と「保護される障害者・生活保護者」との間の対立構造が生まれやすくなっているが、これは国家財政や政治・経済の疲弊の現れでもある。植松被告は障害者施設での不本意な労働を経験し、ある意味で「重度障害者への嫉妬・嫌悪・敵対心」を形成した。

殺人を安楽死として正当化する人はまずいないが、「福祉・医療・教育の当事者」が、その仕事でリアルな対象者と接したために「一番の差別主義者(虐待者)」になる残念なケースが少なからずあるのも事実の一面として認めなければならない。リアルの障害と接した理想主義者が差別主義者に変貌して事務的にこなすようになる。

介護施設でも障害者施設でも社会福祉事業でも、「本心から弱者救済・介助の理念に燃える人」もいるのだが、「生活のために仕方なく不満を抱えて従事する人」がどうしても出てくる。重度障害者抹殺を行動に移すまでいく植松被告は特別だが、施設職員から利用者の悪口・侮辱・否定の雑談が出るケースは皆無ではない。

福祉・医療・教育の当事者なのに、障害者・困窮者・病者の悪口や否定が出るのはなぜなのか。広義の優生思想と労働道徳のアマルガムによる差別主義である。「正常な人間とは?であるの固定観念」が福祉関係者にもあり、その区別を援助意識(倫理的責務)に転換するか切り捨て・見下しに転換するかで信念が変わるのである。

広義の優生思想と労働道徳のアマルガムによる差別主義には、自分はこの重度障害者より自意識・能力・見かけにおいて優れているはずなのに、なぜこんなに人生や仕事がつらいのかという被害者意識が潜在している。何も考えず悩んでいないように見える重度障害者に、一方的な競合心や被害者意識を投影したのが植松被告である。

植松被告のような自己愛肥大による根拠のないプライドの高さ、潜在的な優劣感情にまつわるコンプレックスの強さがある人には、本来、重度障害者施設の職員の仕事に対する適性・資質がないのだが、残念ながら「児童相談所で子供を虐待するスタッフ」のようにこの種の人材(信念)と職務・職業倫理がミスマッチを起こす事がある

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