古代の日本と朝鮮の歴史的つながり、「妻のトリセツの処世術」と脳科学的な正論など

○古代の日本史と朝鮮史は繋がっていて、加羅(任那)という地域で倭人と朝鮮人が混住していたとされる。なぜ古代の朝廷に朝鮮の渡来人が官僚や技術者としてやって来ても、言葉の意志疎通で困らなかったかの理由は、加羅には日本人と祖先を同じくする集団がいつからかいたからで戦中の日鮮同祖論・日韓併合の根拠にもされた。

任那とは何かの古代史の議論は色々あるが、大きく分ければ日本側の植民地とする出先機関説と朝鮮側に有力士族がいてそこから近畿地方に血族がわたってきたという説、ただ倭人が分かれて住んでいただけとする説である。ただ当時の日本は大化の改新前で半島に明確な意思を持って植民地を維持する中央集権的な主体はなかった。

一方、半島の加羅(任那)にいる人たちは明らかに、ヤマトの有力豪族と定期的な連絡があり、言葉が通じて仲間意識を持っていたことは確かである。日本から渡ったのか、朝鮮から渡ったのかの経緯は不明であるが、新羅などは別だが、加羅と百済は当時の日本に対するある種の近縁性があり、その後の白村江の戦いにつながる。

古代朝鮮の三国時代は、高句麗・新羅・百済の拮抗した時代だが、660年の義慈王で滅亡する百済は、軍事を軽視した抑制的な仏教国家として半ば自滅するかのように滅びた。高句麗前に百済を狙った唐・新羅の連合軍に滅ぼされる。王子の豊璋を担いだ百済遺民を支援して、中大兄皇子と斉明天皇が白村江の戦いに臨んだ。

豊璋を補佐していた武将に鬼室福信がいて、百済復興運動で大きな活躍をしたが、鬼室福信の勢力拡大でクーデターを恐れた豊璋が自ら鬼室福信を処刑したことで、白村江以前に百済の滅亡は不可避になっていた。半島を狙った唐の登場によって、日本も統一国家としての意識や朝廷・律令が急速に整っていくことになった。

○熊野の那智の浜(補陀落山寺)を起点とし、仏教の捨身行・補陀落渡海(ふだらくとかい)が行われたが、高知・足摺岬はともかく栃木の日光や山形の月山も補陀落の根本道場だった事は知らなかった。南方の浄土(補陀落)を目指し、冬の夕暮れに小舟を出す…現代では単なる集団自殺に等しいが、中世以前の人の苦悩も偲ばれる。

栃木の日光や山形の月山は周囲は山がちで海はない。根本道場の寺はあったが、渡海船は別の岬から出したという事だろう。補陀落渡海は浄土信仰・観音菩薩信仰の捨身行だが「補陀落(ポタラカ)」は中国・インド・チベットでも想像された浄土だった。チベット仏教ではダライラマ在所の宮殿をポタラ宮というが補陀落に由来する。

補陀落信仰は南方浄土信仰で、日本でポピュラーな西方極楽浄土(阿弥陀仏信仰)ともまた違う。司馬遼太郎が「街道をゆく」の「沖縄・先島への道」で、中世以前の波照間島など先島の人たち(先島は沖縄本島より南西の全島)が、更に南に「南波照間島」という幻の島を想定した逸話を引き、熊野の補陀落浄土を連想していた。

熊野の補陀落山寺も一度行ってみたいが、今はネットで検索すればおおよその様子は見れる便利さはある。補陀落山寺境内の石碑には、平安時代から江戸時代までに25人が補陀落渡海を実行したと刻まれているが、記録に残っていない人がいるとしても、正規の舟を準備して僧侶も連れての補陀落渡海は意外に少なかったようだ。

渡海船はレプリカが寺にあるが「4つの鳥居を備えた屋形船」で、屋形船の鳥居は死後に潜る浄土門とされた。いったん乗り込むと途中で捨身をやめないよう外から釘打ちしたとされる。30日分の食料と油を積み、海で読経しながら沈む前提で屋形船が水葬の仕掛けにも見えて恐ろしいが…浄土も天国も生者の世界ではないのだろう

○科学理論は厳密には定説・事実とされるものでも、反証可能性を持つ仮説なので断定はできない。だからこそ、正統科学は「妻のトリセツ」のような一般受けする実感重視型の読み物にもなりにくい。

妻のトリセツが説く脳の性差 東大准教授は「根拠薄い」 (朝日新聞デジタル – 04月07日 12:17)

心理学も脳科学もアカデミックな仮説検証の内容は、門外漢が聞いても面白い要素はほとんどなく、脳科学の神経伝達過程や認知特性の研究なども専門用語・実験手順・統計操作の連続で、一般的な雑談・ノウハウとして面白い「夫婦関係・人間関係の経験的な実感や出来事」には直接還元も断定もしづらいものばかりである。

ただ「妻のトリセツ」でも「進化論・生殖戦略を応用した人間分析(男女関係の分析)」でも、科学仮説の断片を切り貼りして、一般受けするように編集したエンターテイメント本(経験知と合致する一定以上の有効性・役に立つ要素もある)として需要も価値もある。男性と女性のステレオタイプ再生産という批判もあるにせよ。

みんなが「男(女)だからこう反応しないとおかしい」と決めつけた見方をすれば問題は大きいが、そこまでの影響力はない。「妻のトリセツ」を買ってまで読もうとする男性は、ある意味「勉強して自分が折れてでも妻に機嫌よく接してもらいたい・昔のように仲良くやりたい」と思っているかわいらしい性格の夫かもしれない。

「トリセツ」という人をマニュアル的に扱おうとするコンセプトには、西野カナの歌以来、批判的な意見も多いが、「どうでもいい相手にはトリセツの1ページ目さえ開かない」わけで、トリセツを読む人は臨機応変な対応ができない不器用な人かもしれないが、その人に気に入られたい人(興味・好意・利害を意識してる人)だろう。