人間の「生きる意味・理由」の考察、年金に頼れない老後における自助、田口淳之介・小嶺麗奈が大麻で逮捕など

○マイミクの「生きる意味・死にたい思い」の人生哲学の日記を読み、「死にたいの発言が元で疎遠になった人」や「相対的に恵まれた環境で不幸感・希死念慮を感じる人」について少し考えた。

死にたいや自殺者への同情論を言うと、極端に怒り出す人はいるが、人は畢竟、自分の人生を背負うだけでもかなり大変だからだろう。

自分や家族の人生を余裕なく必死に支え続けている状態にある人(客観視・議論も好きではない人)にとって、「死にたい・人生に意味がない・自殺者にも一理ある」などの意見は、「現在の自分の努力・苦労・忍耐の全否定」のように感じられることもある。自分自身と切り離した客観的な議論・相談ができる人は基本的に少ない。

自殺問題や出生関連思想は死生観が絡むが故に「どんなにつらいことがあっても地べたに這いつくばってでも生きる信念の実践者」と「つらいことがあって耐え切れずに自殺する人・共感する人」には、行為する存在者として深い断絶がある。「生きる意味・理由を求めての死にたい」は、「恵まれた国・時代・人の心理」ではある。

人類とまでいかずとも、ある国家・地域に居住する各人に共通の普遍的・義務的な「生きる意味・理由」は恐らくない。

思想的・宗教的には色々な概念や思索、精神体験の余地はあるが、一般的・長期的な「生きる意味・理由」の多くは、「選択決断・思い込み・記憶・意味づけ」などの作用が生み出す「物語化の自己規定」になる。

「生きる意味・価値・理由」は、普遍的な何かが外部にあってそれに辿り着く類ではなく、人間の身体・精神・脳は誰を取ってもそう大差なく、啓蒙や教育、鍛錬によって苦悩消失の特別な境地が開ける類でもない。

「生きる意味(価値)の至高性・究極性」を意識しすぎれば、「面倒・煩雑な現実の捨象」に行き着くだけだろう。

「生きる意味・理由」を長期的・本質的・普遍的に考えすぎれば、知識と理屈と現実批判の迷宮を彷徨うだけとなるが、適度なレベルで自己と現実と他者を調和させる常識人は「物語化・倫理化・社会化の自己規定」にのめり込んでいる内に寿命の炎が小さくなる。生きる意味を短期的・即物的・個人的に考えれば良い訳でもない。

どう生きれば「生の意欲(エロス)」を高められ「死の誘惑(タナトス)」を遠ざけられるかに唯一の正解はない。絶対に自殺や無気力な生が悪とも断定できない。

社会生活や経済活動、人間関係で楽しもうとして生きる一般的な人生観が現代ではベースになるが、人によって政治・倫理・宗教・教養・遊興などのテイストが変わる。

○政府が「公的年金制度に頼った老後の人生設計」を否定しているが、「年金+数千万円以上の自助(自己資産形成)」ができる人は元々給与額・年金額も高い人ではある。

老後の生活費「自助」求める政府指針に反発相次ぐ 「年金の支払いで貯蓄できないのに自助とは」 (キャリコネ – 05月23日 13:30) http://mixi.at/a8rk8ai

「自助+共助+公助」は公共政策のリソースとして良く言われるが、「(公助負担据え置きで)自助の要請分」をじわじわ増やされるのが、庶民生活には一番負担感が重くのしかかってくる。

税と社会保険料の負担率が50%、非正規率が40%の現状で、3,000万円以上の自助資産形成を労働者全員に促すのは不可能だろう。

○元フジアナの長谷川豊氏の部落差別発言は、「被差別部落の人たちが集団で強姦・強盗などを仕掛けてきた時に、侍が刀を抜いて守った(切り捨て御免の感覚?)」という趣旨だが、その作り話で何を有権者に訴えたかったのか?

国家安全保障というよりは国内の治安維持・警察活動の強権化(反乱分子鎮圧)の喩え話のつもりか?

被差別部落の人たちを引き合いに出し、現代社会の「誰・どんな集団」をメタファーにしているのかが問題の本質に感じる。

その人たちや集団を「刀(武力)」で鎮圧(殺害)する正義を持ち上げているようで、視点を変えれば天安門事件のような強権的な問答無用の秩序維持を想起させる。穢多・非人の理解がどうなっているのか。

非人の起源は中世の特定技能者・職能民・芸能民・警察や福祉の担当者にあり、近世で賤民化してからも、非人は公的な制度・編成の枠から自由ではなかった。

非人は中世期まで「死・罪・清め」を担って畏怖もされたが、日本人が「畏れの敬遠」から「穢れの忌避」の意識を強めるに従い、卑賤・穢れ忌避の被差別民に変質した。

○田口淳之介・小嶺麗奈にせよ高樹沙耶と同じで本心からの罪悪感は薄そう。薬物と個人売春は被害者なき犯罪構造のため、「物語性・遵法と健全へのコミット」の問題に帰着しやすい。 — 田口容疑者「2人のもの」、小嶺容疑者「自分だけ」 大麻所持認めるも食い違う供述 (毎日新聞 – 05月23日 10:46) http://mixi.at/a8rl1Up

オランダやスペイン、ポルトガル、デンマーク、カナダ、アメリカの州のように、大麻の所持・使用を認める国が増えているが、「先進国の功利主義・享楽主義・脳操作主義的クリエイティブのネガティブな終着点=ドラッグカルチャー」なのかもしれない。大麻やコカインは確かに死んだり他人に危害を加えたりのリスクは低い。

先進国(特に欧米・過去の世界覇権国)に生きる現代人は、貴族主義的価値観の元で幸福追求をしがちになって、様々な不平不満や不遇感・不幸感が生まれた。ドラッグカルチャーとは「現実の行動・成果・関係による確率的・競争的な幸福追求の対抗(逃避)文化」として解釈し得る。労働者的・家庭人的な幸福追求のカウンターになっている。

タバコと同等前後の多少の健康被害があるとしても、なぜ本人がリスクを引き受けるのに大麻を所持・吸引してはいけないのか?一部の芸術家・芸能人・インテリ系などの大麻解禁論者は理詰めで考えて、勇み足で大麻文化にはまり、犯罪者として摘発される。日本では「大麻取締法」があり薬理的幸福追求の禁忌感が強くアウトである。

総じて大麻吸引文化、LSDのサイケデリック、ドラッグカルチャーとは、「現実社会の否定・虚無主義の地盤」があるため、日本のような勤勉主義・勤労文化・家庭主義が強い国では容認される余地が乏しい。労働や家族、現実問題の努力を経由せず、大麻・薬物で脳だけ幸せにする脱社会的手法が邪道・退廃・堕落と解される。

大麻解禁国・非犯罪化国は南米まで含めれば相当に多く、大麻によって大量死亡・凶悪事件多発が起こる可能性は確かに低く、実際普及すればタバコに近いような嗜好品の枠になってはくる。ただ精神酩酊作用・強度依存による幻覚妄想などはあるので、タバコのニコチンやタールとは別種のリスクになる。日本では解禁可能性が低い。

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