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映画『清須会議』の感想

総合評価 90点/100点

明智光秀が謀反を起こした『本能寺の変(1582年)』に倒れた織田信長の後継者を誰にするのかを決めるため、織田家の家老と重臣たちが大挙して清洲城に集結して『清須会議』と呼ばれることになる評定を開くことになった。

圧倒的なカリスマと専制権力で織田軍を強力に指揮していた信長の想定外の死、更に信長に続いて明智との戦いに散った長男・織田信忠(中村勘九郎)の死によって、織田家の跡目を継ぐ資格のある子息は次男・織田信孝(坂東巳之助)と三男・織田信雄(妻夫木聡)とに割れることになった。

三谷幸喜の喜劇映画のオールキャストに近い出演陣だが、笑いやユーモアの要素もふんだんに取り入れながら、『列伝的な歴史物語の面白さ』を十分に抽出している。織田信長・豊臣秀吉・柴田勝家などの戦国武将の伝記が好きな人、清須会議に関する大まかな歴史の知識がある人なら、それだけで時代劇映画としての『清須会議』のストーリーを史実との違いも含めて楽しめる。

何より一人一人の歴史上の武将・人物のキャラクター(性格気質・生き方)として知られている特徴を、大げさに強調して演技させているのが『色のついた時代劇』としての滑稽感や納得感を強めている。

猛将として知られる柴田勝家(役所広司)は、織田信長に初期から随従して殆ど全ての戦で先陣を切り、京都平定(将軍の足利義昭追放)・加賀一向一揆鎮圧の数々の戦で勲功を上げた功労者で、元々は織田家中における格付けは羽柴秀吉よりも圧倒的に上だった。

年齢・軍功・激しい気質において家中で抜きんでていた柴田勝家に対し、若年の羽柴秀吉(木下藤吉郎)は『親父殿』という敬称で呼んでぺこぺこ追従していたが、朝倉義景・浅井長政を攻める辺りから秀吉の戦上手の才覚は開花し始め、個人の武力や気迫では勝家に劣るものの、政治家・指揮官・管理者としての才能や先見性では、次第にただ無骨で忠義なだけの勝家は秀吉の足元にも及ばなくなっていく。

映画の終盤、羽柴秀吉(大泉洋)はねね(中谷美紀)と共に、『清須会議』で傀儡の幼児・三法師(織田信秀)を担いだ秀吉にまんまとやられて憤慨する柴田勝家の馬前に進み出て、田んぼの泥道で土下座しながら『今の織田家があるのは親父殿のお蔭でございます。今後とも織田家のためのご尽力をお願いいたします』と殊勝に述べて、自らがいまだ勝家の下位者であり続ける(本気で三法師を主君として敬い続ける)ような演技をする。

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『昭和の戦争』を生んだ“天皇の中空構造と軍部”3:右翼の君民一体と左翼の労働者救済の理想

一般庶民の貧しく惨めな生活を良くするために既存の腐敗堕落した政治体制を転覆させるという目標を掲げた左翼の共産党勢力も、心情的には農民・労働者の味方として右翼と似通った国家社会主義の革命理念を持ってはいたが、左翼は『天皇制・国民国家・私有財産の否定=共和主義と共産主義・ソ連コミンテルン指導下のインターナショナリズム(祖国を持たないプロレタリアートの国際的連帯による暴力革命)』を掲げていたので、1941年の『治安維持法』によって実質的に壊滅させられた。

日本は歴史的に君主を実力で排除する『市民革命』を経験したことがなく、フランス革命に発する『共和主義政体への憧れ』そのものが無かったこともあるが、天皇制を国体の本質として教育されてきた当時の日本人の多くは、『天皇と民衆の一体化(一君万民・君臣一体)』を理想的な国家の有機体的なあり方と見なす部族的な価値観を持っていた。

○『昭和の戦争』を生んだ“国民(庶民)の政治不信”2:血盟団事件(1932年)のテロの正義感・天皇崇拝

大日本帝国憲法において天皇は神聖にして侵すべからずと言われるように、天皇は『絶対無謬の存在(自分自身を持たない中空構造の存在)』であるため、天皇主権の日本国において悪政や誤謬が起こるとすればそれは『天皇自身』に問題があるのではなく、天皇の側近くで間違った政策や考え方を吹き込む『君側の奸(天皇権威を騙る不埒な重臣)』が悪いのだというロジックになり、政治を正すには側近を暗殺しろという『血盟団事件(1932年)・5.15事件(1932年)・2.26事件(1936年)のテロリズム』に流れたのである。

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『昭和の戦争』を生んだ“国民(庶民)の政治不信”2:血盟団事件(1932年)の破滅の哲学と自己犠牲の倫理

テロ事件を起こした右翼青年が共通して述べる目的は『君側の奸を除く』であり、天皇を擁立して讒謗している巨悪の奸臣(現在の政治中枢を牛耳っている元老・首相・閣僚・そこにカネを流す財界人など)に天誅を加えることで、天皇の下に善良な忠臣が再結集して新生日本の再建計画を進めることができるという武勇と忠誠、滅私の物語を信じていた。

戦争を推進しようとする右翼が唱えた『昭和維新』というのは、明治維新の王政復古の原点に帰ることだけが日本を救う道だという信仰を持った集団が、天皇中心主義の革命のために『捨石』になるという国家改造運動であり、こういった自分が死ぬことで国運が好転する(自分の利益や安全を考えないすぐに死んでも良いと自分を捨てることこそが正義なのだ)というメンタリティは後の『神風特攻隊』などにも継承されていく。

○『昭和の戦争』を生んだ“国民(庶民)の経済的困窮”1:右翼の国家改造・左翼の共産革命

とにかく自分の生命と利益を捨てて行動せよという『捨石主義』は、その後の日本軍の行動理念をも間接的に規定していく。『自分が死ぬことこそが国の勝利・繁栄につながる』という道徳観念は一般に共有されるものになったのだが、こういった道徳観念は人類に普遍的なところがあるのかもしれない。

洋の東西を問わず、『自分を大切にする人・お金や豊かさに価値を置く欲望の強い人』よりも『自分を捨てられる人・お金も安楽も要らないというストイックな人』のほうが利他的で道徳的な人間性を持っていると思う庶民はやはり多く、『西郷隆盛信仰』などもそういった無私の印象に根ざしていた。特に日本においてはその道徳観念が、滅私奉公や武士道精神、日本男児の行動理念として自発的な努力と強制的な教育によって植え込まれていったが、当時の右翼の捨石主義(自己犠牲主義)はそういった意味でも道徳的に承認されやすい素地があった。

血盟団を扇動した日蓮宗の過激な僧侶である井上日召や藤井斎空軍大尉(上海事件で戦死)は、自ら進んで破滅に向かう自己犠牲の大馬鹿者が日本を救う(実際には日本を破滅させる軍国主義の口火を切るが)とし、建設・安寧のことなどは後世に任せて、我々はひたすらに不正な既存の権力者・財界人(奸物)を抹殺しさえすれば良いとの短絡的な『破滅の哲学(後の一人一殺のテロ思想)』を吹聴した。強欲な腐敗した政治家ではなく潔癖な命を惜しまない軍人に、天皇の大命を降下させて、政党政治を否定する『超然内閣』を樹立することが国家改造運動を目論む右翼勢力の目標であった。昭和初期の大不況と政治家の相次ぐ疑獄事件がその前提にあった。

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『昭和の戦争』を生んだ“国民(庶民)の経済的困窮”1:右翼の国家改造・左翼の共産革命

関東軍の野心が暴発した“満州事変(柳条湖事件)”から始まった泥沼の『日中戦争』、経済包囲網に耐え兼ねた日本の“真珠湾攻撃”から始まった『日米戦争(太平洋戦争)』、現代の日本の歴史認識と国民アイデンティティに根深い影を落とし続けるこの二つの戦争のそもそもの原因はどこにあったのか。

今から思えば開戦そのものをしない選択もあったように思えるし、『一億玉砕・総動員体制』の狂気に国家全体が駆り立てられる前に戦争のどこかの段階で引き返しておけば良かったようにも思える。だが、当時の日本国民、特に貧しい農民・労働者・兵士の多くは圧倒的に天皇制(皇国思想)の下の戦争を支持する右翼的なメンタリティを持っており、昭和初期の右翼国家社会主義運動(国家改造運動)に突き動かされる形で『政党政治の民主主義』よりも『軍部主導(軍人内閣)の軍国主義』を望んだのである。

日本の戦争を理解するためには、現代とは全く意味合いと影響力が異なる『右翼』と『左翼』と『軍』を知らなければならないが、まず途上国・新興国の多くでは現代のエジプトやミャンマー、トルコなどを見ても分かるように一般大衆のレベルで『軍に対する親近感・信頼感』が『政治家に対する親近感・信頼感』よりも強いということを抑えておかなければならない。

端的に言えば、かつての大日本帝国時代に『昭和恐慌の経済破綻・スタグフレーション・失業』に喘いでいた国民は、大衆の貧窮・飢え・苦境を放置して私腹を肥やしている政治家と財界人の腐敗を憎んでおり、軍部に『政治とカネの結びつき』を断ち切る正義・天誅の役割を強く期待していた。

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