「人類史」カテゴリーアーカイブ

経済の起源とマルセル・モースの「贈与論」の雑感、高額紙幣廃止とキャッシュレス化、接客業の教育とクレームなど

○経済活動の起源は、人間の生存に必要な物質的な条件を確保することにあったが、それだけではなくマリノフスキーの「クラ交換」やマルセル・モースの「贈与論」が示唆する相互的な社会構築を促す「交換のための交換+無償贈与の心理的負債」にあったことは面白い。贈られると贈り返さなければならない負債感に本質があった。

マリノフスキーは利益や必需品獲得を目的としない「トロブリアンド諸島の未開部族のクラ交換」について、「ギブアンドテイクそのものへの愛好」と解釈した。

これは物々交換を支える信頼関係の確認行為であると同時に、「贈与されたからには贈り返さなければいけないという負い目」による個人と集団の結び付きであった。

マルセル・モースのポトラッチを参照した贈与論は「贈与」と「対抗贈与(義務的返礼)」の概念で、経済以前の相互的な関係性を生成する「原交換」を提示した。

これは利益や必要とは関係のないものだが、およそ人類全般に共有される「関係構築・富の示威の原理的な欲求」として解釈できる。中国王朝の朝貢貿易も相関がある。

○「ポトラッチ」はパプアニューギニアやオセアニア各島、アフリカ各地で行われた大規模で競争的な贈与である。贈与される財物には霊的なマナ、物神のハウが宿るとされ、贈与されたからには返礼しなければならない意識が自然に生成するとされた。

ポトラッチのような原交換は「真の所有者」を、現在の人間や部族ではなく、「神・自然・先祖」に求めた。

贈与と返礼の相応は、端的には人間心理に生じる「貸し借りの感覚」であり、古代人から現代人に至るまで何かをもらうことは、究極的には無償ではないという感覚がある。

クラ交換やポトラッチは「個人と集団(集団と集団)の結合と拡大の原理」とされるが、それは共同体の外部で個人が生きられない近代以前は鉄の掟に近かった。

貨幣経済が資本蓄積と結び付いた資本主義の歴史的な特殊性は、「匿名的なマネー」によって、「貸し借りの感覚・共同体に拘束された個人」を無効化しやすくしたことである。

お金があれば基本的に、貸し借りなしでどんな商品やサービスでも匿名的に等価交換できる世界は近代初期までなかった。等価交換自体も困難だった。

近代初期まで「地縁血縁・共同体・祖先崇拝・身分制度などに基づく貸し借りの感覚」の外部に、マネーの力で抜け出られた個人は存在しなかった。

お金の力は相当に限定的で現在とは異なった。究極的には「贈与と返礼(祖先や共同体に返せない恩義)」によって、人は常に共同体(ムラや国家)に忠孝原理で属していたと言える。

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現代人の性や異性関係はどこに向かっていくのか?:性愛の物理的行為は近未来で消滅に近づく恐れもある

人間は近代化と避妊普及の過程で性的幻想で興奮するようになり、本能が壊れた動物としての特徴を強めたとされるが、現代人は『人間の動物性・私的領域の侵犯』を嫌う潔癖な傾向は強まった。

性欲は「子作り」以外には不必要? 「恋人に求められるのもつらい」との声も (http://mixi.at/agaQ4Gq)

こういった大人の行動を現代人が取らなくなっていること、年を取ることを嫌いアンチエイジングが流行っていること、いつまでも遊ぶ子供の精神を持っていることは、生物学ではネオテニー(幼形成熟)の概念で、長く成長できる高等動物の特徴として説明される。ヒトは心や行動が成熟で固まりにくい特殊な動物なのである。

人間含む霊長類の性欲は元々は意識的な生殖行動(妊活)のためのものではなく、自然界では雄の際限のない性欲と異性獲得競争の結果として、雌の妊娠出産という現象が起こってきた。女性の性の権利や同意が明確に意識され始めた歴史は人類の数十年しかなく、男性社会の権力と性欲が中心になって快楽幻想が構築されていた。

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古代ローマ帝国の大地主だったセレブな元老院議員、 インスタや見た目にこだわり過ぎな上西小百合議員

○古代ローマ帝国の強さの一つは公共事業で広大な道路網と郵便網を作り、軍事・経済・連絡のスピードを高めた事だが、一日の旅行距離に合わせた宿駅が約40キロごとに設置された。ローマ人は健脚で一日30キロは歩け、皇帝マクシミヌス殺害を伝えた4世紀の早飛脚は馬を使ったとはいえ、一日225キロを駆け抜けたという。

古代ローマ帝国というと王侯貴族の贅沢・豪奢な生活がイメージされやすいが、版図の大部分は『非市場の自給自足的な農業経済』で『商工業者の身分』は貴族・地主より極端に低かった。ローマ帝国最大の商業都市はアレクサンドリアだが、そこの商人の大富豪でもローマ本国の元老院議員(=大地主)の富の足元にも及ばなかった。

貿易で成功した大商人でもローマの名門貴族・元老院議員と比べれば圧倒的にその富の量が少なかったのはローマ帝国が農業経済によって運営されていたからで商業都市も少なかった。大地主である元老院議員は奴隷使役と農地経営による莫大な利益を手にした者だが、一般ローマ市民も他都市の市民と比べれば特権階級だった。

ローマ帝国の華やかな経済的繁栄はローマ市民の特権集団に限定されたものであったが、やはりローマ帝国でも政治家の腐敗・収賄は深刻で『属州からの搾取・騎士階級の徴税請負・暴利の貸金業』で巨富が形成された。ローマ帝国は官僚機構を持たず役職者が徴税するので、多くは国家に僅かしか収めず税金の大半は横領できた。

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植村直己の登山・極地探検とデナリ(マッキンリー)での遭難死:次の目的地を求める人類

冒険家として知られる植村直己(1941-1984)は、1984年の冬季マッキンリー(デナリ)の単独登頂後に行方不明となり死亡認定されたが、1980年代というのは未踏の高峰・密林や過酷環境の横断(縦走)という『人類の限界挑戦の課題』が終わりを迎えようとしていた時期であった。

人類が登頂していない世界の未踏峰が消え、人類の能力で横断・縦走に成功していない過酷環境の土地が無くなりかけていたのが1980年代半ばであり、植村直己自身も『次の冒険の宛先』を見失いかけていた。

次の冒険として北極点到達に続く『厳冬期のエベレスト登頂・南極点単独犬ぞり探検』が計画されてはいたが、エベレストは竹中昇の死去・悪天で断念し、南極点もフォークランド紛争勃発で軍の協力が得られなくなって諦めていた。

北米大陸最高峰のマッキンリー(6,190m)はアメリカの大統領ウィリアム・マッキンリーにちなんだものだが、2015年にアラスカ先住民が呼んでいた元々の山名である『デナリ』に変更されることになり(こういった一度は土地の支配者による命名が為された後に、再び原住民の元の呼称に戻るという名前変更は近年では政治的正しさの影響で多くなっているようだ)、マッキンリーという慣れ親しんだ山の名前は公式には消えたことになる。

植村にとってマッキンリーは既に1970年に登頂した山であり、この時に世界初の五大陸最高峰登頂者にもなっていたが、厳冬期に敢えて登ってみるという以上の意味合いはなく、この登山そのものは植村の個人的な意思に基づくもので、スポンサーはつかず注目もされていなかった。植村は自分自身の冒険に区切りがついたら野外学校設立を目指してもいたので、インターバル的なマッキンリー登山(厳冬期の死亡率はエベレスト以上に高い山だが)で遭難死したのは運命ではあった。

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ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)は食べ物を煮炊きして食べていたか?

ネアンデルタール人はホモ・サピエンス・サピエンス(現生人類)と共通祖先を持つホモ属ではあるが、現生人類とは異なる種であり、約3万年前に現生人類との闘争に敗れて絶滅したとされるが、直立二足歩行以外の『言語・感情・道具のレベル』には諸説ある。

ネアンデルタール人も煮炊きしていた?

ネアンデルタール人の感情についても遺跡でまとまった『花の種子』が見つかり、『死者を弔う感情・葬儀の慣習』があったのではないかと推測されたが、古人類の問題は遺跡・史料からだけでは断定的な判断は不可能である。喉頭の骨の形状から現生人類ほどの多様な音声は出せず言語能力は限定されていたと考えられている。

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“男が要らないと思う女が増える平和な時代”と“ジェンダーの差異が曖昧化する男女”:2

人間社会の歴史的推移を見渡せば、戦乱が多くて貧しい時代(理屈・正論を言っていられない力と勝ち負けの時代)には『男性原理』が強まり、平和が続いて豊かな時代(理屈・正論が検証されやすい知と倫理の時代)には『女性原理』が強まる傾向がある。古代ローマ帝国でもその成熟期には女性原理が強まって少子化が進んだという記録があるが、女性の発言力や自由意思、稼得能力が強まると『性別役割としての出産・育児の義務』が弱まるので、一般に男性社会よりも出生率は低く推移しやすい。

『広義の暴力(戦争)・暴言』が法律と倫理、自尊心で禁圧される現代という特殊な時代環境においては、他者を暴力あるいは実力で打ち倒そうとしたり、勇ましい自分を誇示したりする『男性性・男らしさ』を発揮できる場面は、経済競争や見せかけの肉体(筋力)に限られてくる。

そのため、男性主義的な過去の共同体原理や男女の役割分担に郷愁を寄せる人たちは、常に『戦うべき外敵の存在や侵略の危機(女子供を守る男らしさとしての腕力を発揮できる場)』を求め続けていたりもするが、これは裏返して考えれば『物理的な暴力の危険性』が十分に低ければ、伝統的な男性ジェンダーの中核にあった勇ましさ・逞しさ(いざという時の暴力による防衛)の必要性も弱まってしまうことを意味する。

暴力(武力)によってしか解決や防衛ができない種類の問題がなくなれば、男性原理は女性原理にその場を譲る他はなくなるし、『男らしさに特有とされてきた正義・防衛のための暴力(これも自分・自民族以外の男の暴力であって男同士の争いになりがちだが)』を専売特許とするような政策や文化、価値観の形成も難しくなっていくだろう。

暴力・武力が時に正義や武徳として賞賛されてきたのは、『自分たち以外の不当な暴力・武力の存在』を想定することができるからであり、軍事力強化の必要性を情緒的に説く文句には『外国から侵略されると自国の女性が性的に蹂躙されてしまう』といった外部の男の暴力性・強姦性をことさらに強調するものも多い。どう間違っても、『外国から侵略されると自国の男性が性的に蹂躙されてしまう(労働力として奴隷化されるなどの主張はあるが)』といった文句にはならないところが、本質的な男女のジェンダーの差異というか教育・文明・倫理によって制御されている『潜在的な男性の暴力性(性の衝動性)』を暗示しているのだろう。

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