ネット論壇の有名人と個人ブロガーの存在感の低下(RSSリーダーの消滅)

ウェブ論壇なる書籍もあったが、きっこや山本一郎、ちきりん等は『ブログ全盛期』の2005年~が注目度が一番高かった時期かも。2010年頃まではざっとチェックしてたがツイッター論戦がメインの時代になってからは読んでないし、全体的に見てもソリッドな主張・見識が目立つ個人ブロガーはあまりでなくなってきているように感じる。

「ネット論壇」を語るなら、知ってて当然な基礎知識

ネット論壇は『同じテーマの議論の角度や材料を変えた繰り返し』といった様相が出てきてから、新規参入者が減ってかつてほどの盛況を見なくなった。ブログのトラックバック機能(他ブログへの言及機能)がほとんど使われなくなった変化やmixiのログイン率の低下(mixi内の議論の不活性化)とも重なるかもしれない。

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外見的な特徴・雰囲気では“女要素”は好かれやすく“男要素”は好かれにくいのか?

掲示板で“女要素”は男・女共に好かれ“男要素”は男・女共に好かれにくいという話を、プリキュアやラブライブ、宝塚など『女も好む女だけの楽園』を例にし『中性的容姿の男の選好』に触れていた。男要素の価値は生物学的にも『外見・感覚の美観』より『仕事・戦闘の実利』に置かれたがそれが現代では縮小しがちなのかも。

確かに、男性が好む『男要素の多い漫画・物語』はあるが、そういった作品の多くには『仕事・戦闘・不良文化の対決とそこから得られる利益(階層的な上下関係・より困難な仕事の達成やより強い敵の撃破)』が関係していて、女キャラだけが登場する『女だけの楽園』と並ぶ『男だけの楽園』といった世界観は成立しづらい。

腐女子やドルオタなど一部の女性が好む『美形の男』も、『女要素の美観を持つ中性的存在』で、仕事・戦闘喧嘩・競争の勝敗や上下関係メインの『純粋な男要素』は余り人気がないように思う。ファッション雑誌が典型だが、女性は美形の女性を観賞するのが好きな人も多いが、男性には美形・着飾った男性を観賞する趣味がない。

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裁判官の判例主義(前例踏襲)を市民感覚で修正することによる裁判員制度の趣旨と心理的負担

専門家の裁判官の判決は、正義感や社会常識(市民感覚)を交えない『判例主義』に過ぎるとして批判の矢面に立たされてきたが、その批判の多くは被害者救済の道が原理的に閉ざされた殺人罪などに対する『判決の甘さ』に寄せられていた。

<裁判員>「心に負担」ずっと 経験者7割超に「あった」

『過去の判例・量刑基準』と照らし合わせて、理不尽な殺人であっても『死刑判決』を容易には出さない半ば機械的な裁判官の判決は、『心理的負担の緩和(裁判官の個人的な裁量だけで量刑の重さを判断しているわけではない)』という副次的効果を生み出していた面もある。

被告の人生(生命)を大きく左右する判決を、十分な学習・訓練の機会のない法律の素人である裁判員が話し合いを通して決めるというプロセスはかなりのストレスや重圧感を伴うものになる。

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資本主義経済の最低賃金水準はなぜ生存ラインを大きく上回らないのか?

ファストフードや警備員、GSのスタッフの時給が1500円や2000円であれば、先進国の経済社会から『低賃金労働ゆえの悩み・不満』は一掃されるだろうが、そうはならない理由は『労働生産性』というキーワードで語られる資本主義経済の労働再生産と学歴・資格の仕組みにある。

一流とされる大企業に勤める大卒・院卒の総合職や専門職(研究職)のボーナスも含めたサラリーの水準は、概ね時給3000~5000円の水準にあるとされる。

「マックジョブに時給1500円」要求で議論 「これじゃ生活できない」「金額に見合う仕事なのか」

これは1000円以下のアルバイトの時給と比較すれば破格に高いようにも思えるが、『難易度や倍率の高い入試・入社のスクリーニング』をくぐり抜けたことによって得ることが期待できる報酬、『仕事そのものの責任の重さ・知的な高度さ・技術的な難しさ・必要資格の取得コスト』などを織り込んだ所得格差として解釈されているものである。

『能力や資格のスクリーニングがない・職業キャリアの積み上げを問わない・やる気だけですぐにでも取り組める』という型の仕事は、誰でも代替しやすい作業型のルーティンワークであるため、賃金水準が低めに設定されやすく機械化・自動化によってリストラされやすくなる傾向がある。

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沖縄県の普天間基地移設に対する反対運動:戦前戦後、粛々と国や法律によって全体のための負担を負わせられた沖縄の歴史

政府(首相)や公権力が『粛々と進める』という発言をする時には、『反対派・抵抗勢力が存在するとしてもいくら反対しようとも法律と行政の執行権の裏付けに基づいて強制的に推し進めることができる(反対運動をして騒ぐなら騒いでも良いが権力は痛痒に感じず結果は決まっている)』といった威嚇や無視、傲慢の意味合いを帯びる。

安倍首相「粛々、私も使う必要ない」 普天間移設問題

地域主権や地方自治といった大義名分がハリボテであることの露見であり、国家権力の絶対性と法律執行(条約遵守)の強制性によって地域と人々が支配される“中央集権体制(権力及び多数派による不利益強制の正当化)”を理想とすることの現れでもある。

地域住民の意向や地方自治体の自主権を大幅に抑圧して、『国家全体のための負担を一自治体に無理やりに押し付ける法律・条例』は、憲法違反や人権侵害の疑いもある。

中国を仮想敵に設定した『地政学的なパワーバランス』のために沖縄県は未来永劫、日本の安全保障政策(実質的に沖縄県をダシにして対中国で団結するような国民統合政策)のための犠牲となって、米軍基地あるいは自衛隊(国防軍)基地を大量に受け容れ続けなければならないというのは、沖縄県民が日本人としての権利や地位を中途半端にしか認められていないという事にも成りかねない。

沖縄県は江戸中期以降に薩摩藩の侵攻(間接支配)を受けたが、明治の廃藩置県の流れでは、一方的な琉球処分によって琉球王国としての自治権を完全に喪失し、正に“粛々と”力の論理で近代日本に組み込まれた。

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“自国のために国民を戦わせる政府”の無能、“外国人の生命・人生への自然な想像力”を遮断させる教育の危険

政府主導の国家間の戦争を拒絶したり戦闘・威嚇に協力しないということは、自分たちの生活領域に攻め込まれても何も抵抗しない、自分や家族、友人が攻撃されても対抗しないという『無抵抗主義』とは異なる。

政府が外交や安保に失敗し続けて戦争に巻き込まれる可能性は、現代の日本では意図的に軍事重視・国民困窮化(格差拡大)の政策にシフトでもしない限りは低いが、仮に目の前で戦闘行為が自分たちに仕掛けられれば、戦争反対の平和主義者でも自衛のための戦闘・避難・ゲリラ活動は行うだろう。

それは戦争に賛成か反対かのレベルの判断ではなく、法権力が担保する秩序(暴力の絶対禁止)が解体した状況において、人間に保障されるべき自然権の行使だからである。

『戦闘前からの好戦的姿勢・軍事重視・国家主義に反対すること』と『戦闘後のやむを得ない自然権の行使(殺されない自衛のためのレジスタンスやゲリラの闘争)』は矛盾なく両立する。

常日頃から、自国のために戦うべきだ(戦わない奴は非国民だ)とか悪意のある外国が自国を侵略したがっている(その外国の人間は自分たちより人間性や道徳が劣っている)とかいう『国家単位の争いごとの不可避性・仮想敵の設定やそれに対する攻撃性』を口にしない平和主義は、『専守防衛の備え・宣言』や『近隣諸国との友好関係の誘いかけ(政治・経済・観光・文化娯楽などの交流促進)』と両立するということである。

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