大人になるほど1年や1日が短く感じられるのはなぜか?:“心理的時間が進む速さ”の年齢による変化

一般に年齢が高くなるほど、1週間や1年間といった『まとまった時間単位』の時間が流れる速さが速くなると感じられる。

この理由は記事にある『加齢による代謝の低下』という脳の視交叉上核が関係した生物学的原因、『人生全体に対する時間単位の比率の低下(5歳にとっての1年は20%・50歳にとっての1年は2%,新規体験への興味や感動の減少)』というポール・ジャネの法則などで説明されている。

動物を含めると、寿命が短くて代謝が活発な小動物ほど『周囲の世界の動きをゆるやかに感じている(スローモーション的な知覚)』ために、『心理的時間』が『時計的時間』に比べて速くなっていて、時間がゆっくり進んでいるように感じているという。

心理的時間が速ければ速いほど、周囲の動きはゆるやかに感じられ、天体の公転と関連した客観的に測定される時計的時間よりも心理的時間のほうが速いので、『まだ1時間しか経っていないのか(自分の心理的時間感覚では2時間以上経っているように感じられる)』というズレが生まれてくる。

動物には時間の概念は理解できないので正確な喩えではないが、寿命が短く代謝が活発であれば、太く短く生きるとでもいうかのように『客観的な寿命の短さ』と同時に『心理的(主観的)な時間の長さ』もある程度はある(小動物本体にとってはそんなにあっという間ではない感覚がある)と推測されているのである。

年齢による時間感覚の変化は、数日以上、数ヶ月や1年間といった『ある程度まとまった時間単位』を振り返った場合に特に顕著である。

一方、『今日は時間が経つのが早かったな・遅かったな』という数時間から1日程度の短期スパンにおける『心理的時間の速さ』は年齢の要因よりも、好きなことを能動的にやっているか、嫌なことを受動的にやっているかという心理的・認知的な要因(コミットメント要因)のほうが大きく影響しやすい。

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高学歴ワーキングプアはなぜ生まれるのか?:学歴や学力と稼ぐための意志・能力・適応

高学歴は会社員・公務員のサラリーパーソン上層のパスポートにはなるが、学力・研究能力自体はビジネスや企業適応とは関係がない。修士博士の学位は医師・法曹・エンジニア・科学者でなければ、企業・団体の需要が余りない。

京大院卒でゴミ収集バイト。なぜ高学歴プアという現象が起きるのか?

大学院は建前の上ではアカデミシャン(大学人・研究者)や高度なスペシャリストを養成する研究教育機関だが、米国のビジネススクールなど例外を除いて、市場経済や企業社会への適応性を高めることを目的としていない。民間では自分の専門が企業の研究開発部門にマッチしなければ、院卒は学卒より採用されづらい。

特に文学・哲学・史学・社会学などの文系分野の大学院は、企業のビジネスや利益になる研究開発部門とは殆ど無縁だ。高度な文献学・教養・思考能力に基づくリベラルアーツや言語的能力は人生を豊かにしてくれるが、それが企業で特別に求められる場面は、一部の教育産業を除き想定しにくい。教員・講師での応用はできるが。

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大阪府高槻市の中一殺害事件:子供の夜遊びと放任主義の親を責める声も多いけれど。

少女遺体「野宿する」とLINEで
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3571756

子供が被害者になる事件が起こった時に、『良からぬ悪友との交友関係・いじめや対人トラブルの兆候・夜遊びや異性交遊・親の過度の管理主義や放任主義』などが明らかになると、事件の真相や加害者の責任よりも『子供本人・親の落ち度』がクローズアップして養育責任・自衛意識の欠如として叩かれやすくなる。

確かに、小学生とほとんど変わらない体格・意識の小さな中学1年生の子供に、完全に『フリーハンドな行動の自由(夜間外出の自由)』を与えることは危険性が高いし、もしもの時に適切な対応や責任を取れないことが多い。

子育て論や法律論としては反論しようのない常識の正論ではあるが、正論過ぎるが故に『我が子が被害を受けたばかりの親・家族』に向けて語る言葉としては、ほとんど無意味であると同時に今言ってみても仕方のないこと(おそらくその親としてもいいか悪いかの常識論としては承知していたが実行できなかったこと)である。

犯罪に対する自衛意識や予防策を強化するために、『被害者の落ち度・問題点』を洗い出して警鐘・忠告の材料にすることには、『自分たちが危険な目に遭わないためにできるだけ夜間は出ないようにしようという意識の強化』もあるが、それ以上に『決まったルール・常識を守らなかったからあんなひどい目に遭ったんだよという自己責任・自業自得』を煽る好ましくない側面もある。

このケースは、親が監護責任を果たすべき12~13歳の子供であったから、『親がもう少しきちんと子供の行動・危険回避に責任を持って指導すべき・もっと子供が何をしているかに興味や注意を持って安全な生活ができるように守ってあげるべき』という正論は磐石なものだろう。

だが例えば、成人男性が夜間の帰宅時にコンビニに行っていきなり鉄パイプで殴打される強盗事件に遭ったとして、『こいつは夜間に出かけたから被害に遭ったんだ』となり、成人女性が薄暗い早朝の出勤時に路地に引きずり込まれて性被害に遭った場合に、『この女性は明るくない時間帯に短いスカートで出勤しているから悪いんだ』というような被害者の落ち度を過度に探ったり、人間のあらゆるリスクをゼロにしようという極端さに傾斜する可能性も否めないのである。

そもそも、現代では男女雇用機会均等の促進によって、深夜早朝のコンビニでも若い女性店員が働いていて、長距離の運送をしている女性ドライバーだって増えていて、『女子供だから夜は外に出てはいけないというルール』は仕事や生活の上でも守りづらい状況にある人が多い。

学校の部活でさえ、終わって帰る頃には9時過ぎくらいになることは珍しいものではないし、不良でもギャルでも何でもない真面目なそうな学生が9時~10時以降に自転車で帰宅している姿などもざらに見かけるものだ。疲れきった感じのサラリーマンの女性が終電で帰っている風景などもありふれた風景の一つであり、日が差さない夜になったら血に飢えたドラキュラや悪鬼が徘徊するとでもいうようなイメージで、日常生活や仕事・人間関係をこなしている人はまずいないはずである。

個人的には『夜間・早朝の外出』も割かし好きなほうだが、登山のアプローチでちょっとした市街地を夜中に歩いたり、映画館のレイトショーの帰りがけに徒歩でわざと1時間くらいかけて真夜中の道をテクテク歩いたり、ゴミ捨てのついでに早朝の繁華街をぶらついたりもする、夜でも0時くらいまでは結構ランナーやウォーキングの人と擦れ違ったりもするので、『静かな夜・朝の時間帯での運動や感覚の魅力』を感じている人も少なからずいるのだろうと思う。

夜間外出は、大半の成人男性の視点では目だった危険はまずないとも言えるが、無関係な他者からの殺人事件に遭遇するとしたら、年間発生件数からしても相当に運が悪いとしか言いようが無いが、腕力・抵抗力の面で弱者と見られやすい女性・子供の場合には男よりも一段リスクは上がるだろうから、『場所・時間』によっては一人での外出は気をつけたほうがいいのだろう。

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大阪府高槻市の少女殺害遺棄事件:少女の身元不明・猟奇性・殺害の動機不明など不可解な点が多い

大阪府高槻市の駐車場に若い女性の遺体が遺棄された事件。被害者は小中学生くらいの10代の子供と推定されているが、未だ身元も判明せず親からの問い合わせもないのは不可解だ。『無戸籍児・親(養育者)の虐待殺人』等の可能性もあるが、数十箇所の傷・顔面を粘着テープで巻く等が異常・猟奇的でどこかサイコパス的な心理構造を意識させる。

物流センター所有の広い駐車場で、薄暗くて見通しは悪いが、真夜中でも1時間に1回は車の出入りがあり、夜中に定期の見回りもしているという。続報で遺体発見の1時間前に防犯カメラに遺棄に関係したと見られる二台の車が映っていたという。猟奇性を感じる事件で単独犯でないのは珍しいが車の特定ができれば逮捕に近づく。

『遺棄現場の選び方』や『二台の車で現場に乗り付けたこと』が、捜査を混乱させる計算でないのであれば、犯人の遺体遺棄はかなり行き当たりばったりで杜撰なものである。実際、遺棄して二台の車が出て行った30分後には仕事のトラックが現場に入ってきてすぐ遺体が発見されており、30分遅れていれば鉢合わせしていた。

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佐野研二郎氏の東京五輪エンブレムの模倣疑惑:『コネ・著作権』の絡むデザイン・芸術・創作の仕事の特殊性

佐野研二郎氏の東京五輪エンブレムの模倣疑惑は、『デザインの模倣事例の続出』で問題が拡大しているが、この問題は表面的には『一人のデザイナーの倫理観・アイデア・著作権違反の問題』だが、根本にあるのは『閉鎖的なデザイナーの世界の選考・評価の曖昧さ』と『実力・コネの不可分性(非実力主義の要素)』だろう。

膨大無数のデザインやアイデアがウェブに溢れるウェブ社会で『著作権法の形骸化(オリジナル性の多数化・編集化)』が起こっていて、音楽を筆頭にかつての著作権ビジネスが斜陽期に入った影響もあるが、この五輪エンブレムは『巨大な国策による東京五輪利権の末端』で発生した杜撰な仕事のやり方の問題である。

東京五輪エンブレム審査委員会は、電通に次ぐ広告代理店・博報堂の人脈が関係していたとされる。佐野研二郎氏が大手案件を獲得してきた背景には、博報堂のキャリア・人脈と親族のプッシュも影響しているが、逆にそういったメディア・広告・大企業の人脈に食い込まないと、意匠のデザイン一本で生計を立てるのは至難である。

デザインや芸術の世界は、センス・実力・才覚があれば公正な競争を通して評価される単純なものではなく、どのデザインや絵が優れているかを客観的に評価することが出版部数のある漫画等より難しい。『業界・権威的有力者のお墨付き』と『大組織の利権・人間関係でのポスト』を得るとやっつけ仕事や丸投げになりやすい。

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アジア太平洋戦争を振り返った『安倍談話』についての感想:なぜ国・民族で排他的にいがみあうのか?

安倍談話の内容は『反論可能性を予期した完全性』を担保したもので、思想的・政治的なバイアスを極力排除した穏当なものだが、安倍首相本人の今までの歴史観・抑止力と安保情勢の認識が反映されておらず建前的な装いもある。

安倍首相の戦後70年談話全文

残念なのは、安倍談話を読んでの一部の国民の『党派的・イデオロギー的な反応』だろう。『この談話に同意できなければ日本人ではない・日本から出て行け』というムラ社会的な排他性は、先のアジア太平洋戦争において『私は戦争反対であると言えない全体主義(精神総動員)の空気』を醸成する群集心理の発露・踏み絵だった。

『私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない』というのは、『現代的な個人主義の発想』でありもっともだが、それを言っている安倍首相自身が『復古的(反個人主義的)な集団帰属・規範主義の責任ある日本人』を理想的な日本人の原型として持ち上げているのは皮肉だ。

ある国に所属している同じ国民であっても、『国家・民族・歴史と自我同一化する個人』もいればそうでない個人もいるというのが、『過去の歴史的責任の世代間継承』を切断する社会認識のとっかかりになる。なぜ国家単位で親・祖父母の世代の戦争の罪を子孫が問われるのか、世代間の価値・歴史の継承が推測されるからである。

民族主義の右派の感受性に置き換えると、ある韓国人が『私は韓国人ですが、韓国政府の歴史認識や右翼的な日本への民族的嫌悪とは関わりがなく、私は私として日本人と仲良くやっていきたいと思っています』と語った時に、どう思うかということが『過去の戦争・歴史の責任の世代間継承』と深く関わっているのだ。

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