仏教の諸行無常の世界観と人の悩み・苦しみへの対応:流動的な現実・自我に対して固定的な意識(過剰な欲望・執着心)になり過ぎないように。

仏教の世界観は『諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静』に集約されるが、個人の解脱(正覚)や衆生の救済を説く仏教の功徳は『抜苦与楽』といわれる。

人はなぜ苦しむのかの問いに、ゴータマ・シッダールタ(仏陀)はシンプルに『煩悩・渇愛の執着』があるからだと答えるが、それを諸行無常に照らせば『すべてがただ過ぎ去る(生命の炎がいつか吹き消される)世界の中に、自我とその快感覚を常住させようとする執着の足掻き』によって苦しむとも解釈できる。

生命活動とは、すべてが流れさっていく中で流されまいと踏ん張り、吹き消されようとする中で吹き消されまいと己を燃やす営みであり、自我が時間に流されて吹き消される前に、次世代の生命へと輪廻する縁起・本性を持つものでもある。

悠久の宇宙と膨大な時間を前に、人は砂粒ほどに小さく無力である。その人為・努力・技術あらゆるものをもってしても、宇宙開闢以来すべてを流しさって生命とモノの秩序を崩壊させてきたエントロピー増大則に抗することは不可能であり(刹那的な生命・仕事によるネゲントロピーで部分的な抵抗はできるが)、時間が何なのか何の意味があるのかさえ誰も分からない。

存在の有限性と自我の一回性の前に、人は根底的不安から戦慄して目を背けざるを得ない。有限性を直視して苦しみ・迷いを超越して輪廻から離脱したものを正覚者たる仏陀と呼ぶ。だが煩悩と弱さを抱えた人間はまず仏陀などにはなれないからこそ、人間界は輪廻を繰り返して今なおここにあるとも言える。

苦しみの原因として『生・老・病・死』の四苦を上げるが、これは『時間経過による死の運命』であると同時に『人(生命)の有限性』によって生じる不可避な苦しみである。私もいずれ老いて死ぬが、私より先に生まれた祖父母・親きょうだいはかなりの確率で先に死に、好きになった人も大切な人も良い思い出のある人も嫌な思い出のある人もおそらくは、宇宙的時間に照らせばわずか100年(またたきの刹那)の歳月にさえ耐え切れずどこかに流れ去っていくだろう。

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