理不尽なトップダウンの会社組織に適応させる『規律訓練・自己否定』の新人研修:会社に適応できないと貧困化しやすい弱みもある。

資本主義経済の基本単位である会社組織では、一昔前までは『労基法違反・日付変更の長時間労働・パワハラ・セクハラ・人格軽視』が横行していて、会社は学校と似た半ば『治外法権の特殊な空間』とされており、一般社会では許されない暴言暴力・不品行・男女差別などが会社組織内部の上下関係や男女関係においては黙認され続けていた。

■日本一厳しい新人研修に涙する社員 「完全にカルト教団で恐い」「どう見ても洗脳だし奴隷育成」との批判も

会社や就職というのは客観的に考えれば、個人をもっとも強力かつ決定的に順応させて『会社のルール・必要性』によって確実に行動させられる社会的装置である。個人が半ば自動的に自分の都合・欲求を抑制して、上位者や周囲に大人しく調和する集団でもある。『外部社会の常識・法律に反する行動(パワハラ・暴力行為・食品偽装・粉飾決算・脱税など色んな例がある)』であっても、それに誰も反論できずむしろ正しいとさえ思って自然に従ってしまうことも多い。

人間を毎日必ず朝8時までに出社させ、仕事上の必要があれば深夜0時までであっても残業させることができる(外国でも遠隔地でも出張させて派遣できる)というだけでも相当な影響力である。人生や生活の原資を稼がなければ生きていけないというクリティカルなニーズを会社(雇用)に握られているということもあるが、個人対個人の関係性ではここまでの影響力行使はまず不可能である。

どんなに大事な家族や惚れた恋人であってもどんなに長期の信頼のある友人であっても、『毎日必ず朝8時までにこの場所に来てこの仕事をしなさい・夜8時までは帰ってはいけません』と指示ではなく必死に懇請されてもそれを遵守することは難しいが、特別な不満・問題のない会社員であれば40年以上にわたって適応できている人も多い。

大多数の会社員は相当に無茶な業務命令や勤務時間、上下関係であっても異議申し立てをせずに、面従腹背の人がいるとしても表面的にはみんなと同じように振る舞わなければならない慣習・常識が空気のようにある。

逆に言えば、かつての日本企業は『擬制された家・共同体』のように位置づけられていて、その構成員の人生を預かって強い支配的な影響力を振るった一方で、定年するまで経済的に困らないだけの終身雇用・安定所得を保障することで『会社の理不尽さ』を納得させていた部分がある。

こういったどんな馬鹿げたことでも指示されたことを必死にやる(必死にやってもそんなんじゃダメだとひたすらダメだしされる・声が枯れてガラガラになるまで決まったフレーズを叫ばせる等)という『規律訓練型の新人研修』は、『会社・上司に反射的に服従する意見をしない人材(自分の頭脳や感情で考えて判断しない人材)』の育成に役立つが、基本的には第二次産業の定型的な工場労働や第三次産業のマニュアル的な接客業、とにかく行動を求めるタイプの営業などにおいて応用されやすいものだろう。

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“ひきこもり・無職”は個人の問題であると同時に、スケープゴート化されやすい現代日本の不適応問題(社会の喪失・労働価値の低下)でもある。

ひきこもり・無職(ニート)の問題は非常に扱いが難しく、『精神疾患・発達障害・不適応・意志欠如・怠けの個人の問題』『甘やかし・過保護・過干渉・児童虐待・いじめなどの家族や学校の問題』に還元する人もいれば、『労働市場(即戦力としての経験やスキル)・履歴やキャリア・人材評価・経済構造(企業の対応や景気)の社会や企業の問題』に還元する人もいる。

実際にひきこもっている人の中には、統合失調症・重症うつ病・適応障害などの明らかな精神疾患の症状を呈している人もいれば、精神的に落ち込み気味で意欲や覇気はないが精神病理のレベルにまでは至ってない人もいれば、それなりに健康な精神状態ではあるがなかなか社会に出て働く意志や気力が起きない人もいれば、それなりにコミュニケーション力があって遊び・娯楽目的の外出ならできるという人(ひきこもりというより自発的失業の持続に近い人)もいるだろう。

ひきこもりやニートの中には、明らかに知的能力・職業能力・対話力が低いために社会に出ていけない人たちもいるが、高学歴者・潜在的能力(コミュニケーション力)の高い人も含まれている。そういった能力が低いわけではないひきこもりの人たちの多くは『自分の持つ知識・技術・経験』などを金銭(収入)・職業に変える方法・手段がわからず(捨てられないこだわり・プライドなどから)適当な職種の労働者になりきることもできずにくすぶっていることが多い。

ひきこもり・無職者の問題の難しさは、『個人主義・自己責任・市場原理の先鋭化』と『経済格差・雇用格差の拡大(一般的な労働条件・所得水準の悪化)』によって強まり、特に消費文明が発達して労働者としての主体性が揺らぎやすい先進国ではその数も増加しやすくなる。

端的には『ひきこもった後の社会復帰・再就職の難しさ』に加えて『社会参加してもどうせ最下層(低待遇)でやりがい・昇進昇給のない立場に置かれるという諦め』が加わりやすいが、現状はずっと真面目に働いてきた人でさえも非正規雇用や低賃金の待遇、解雇などの冷遇を受けることが多く、『ただ何でもいいから働くことによって満たされる欲求・自尊心』が過去に比べてかなり低くなってしまっている(それどころか働いてもなお貧困で前向きな将来の展望もない人が増えている)のである。

成熟から衰退へと向かう先進国の消費文明社会では、『働くことの技能的・心理的なハードル』が上がりやすいが、様々な知識・技能を身に付けて働いたとしても『好きなジャンルや職種の仕事(内発的モチベーションを高めて仕事そのものを楽しめる仕事)』にありつける可能性は小さくなっており、『ただ働くだけで満たされる欲求・自尊心(極論すればただ働いているだけの状態は、ただ働いていない人よりも社会的・経済的に有益であるという視点でしか評価されづらいのでひきこもりはバッシングされやすい)』もかなり小さくなっている。

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吉本隆明の講演集の音源:死んだ思想家の語りを聴き終わるまでAudibleが解約できない…

今、満喫している楽しみの一つに、深夜・早朝の約60分間のウォーキングの時間に、AmazonのAudibleで今は亡き吉本隆明(1924~2012)の政治経済や文学と詩・人生論・宗教論などの広範なテーマを巡る講演を聴くことがある。

吉本隆明の著作そのものは、代表的な作品・思想以外は、晩年のものを中心に読みやすい時代批評や人生哲学を読んでいるが、吉本の文学論・近代詩論にはほとんど接していないのでそういったジャンルを新鮮味があるし、フランクなくだけたおっちゃんのノリで様々なテーマを持論を踏まえて楽しそうに語る吉本の講演は『今この世にいない死者の声』という意味で奇妙な時間軸の捻じれを味わうこともできる。

曽野綾子のキリスト教ベースの人生哲学とか、田中芳樹の『銀河英雄伝説』とか、芥川龍之介や夏目漱石の小説なんかもたまに聴いているのだが、音質が悪くて語りが必ずしも上手くない吉本隆明の講演が一番面白くてあれこれ考える材料になる。

ウォーキングしながらスマホで吉本隆明の『宗教としての天皇制』『国家・家・大衆・知識人』『親鸞について』などを聴いている人は、今の日本でどれくらいいるのだろうか、深夜1時などの同時間帯では恐らく僕一人ではないかと思いながら、暗く静けさに満ちた街灯が照らす夜道を5キロ、10キロと淡々と歩き続け、適当な所で見切りをつけて復路を辿る。

中には音が割れていたり小さすぎて聴こえないものもあるのだが、大学の講義・各地の講演会などで録音された年月を見ると1960年代~1980年代というかなり古いものであり、カセットテープに録音していたものをデジタル化したと思われるから、こういった『音質の悪さ・参加者の咳払いや不規則発言・室外の車などの騒音』も時代のライブ感として感じることができる。

吉本隆明は秩序だった講演の語りが上手いわけではないが、流暢ではないことが逆に『生身の語り(下書きした原稿の流れなどに強く頼らない即興的な語り)』の味わいを醸し出している。

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