生命(個体)の継続を否定する『反出生主義』にどう反論できるか?、出産・人類の継続を理性・理屈で論理的に肯定できるか?

現代の先進国の少子化原因(選択的な出産回避)、自己否定的な悲観主義の一つとして、『虚無主義・優生思想』とも関係したデイヴィッド・ベネターらの『反出生主義(antinatalism)』が挙げられることがある。

http://0dt.org/vhem/argue.html

http://chaos2ch.com/archives/4750759.html

反出生主義とは『人生は快より苦が多く生まれてこなければ良かった・生まれなければ何も思い煩う主体がそもそもない』という通俗的な悲観主義・虚無的な厭世感を、『帰結主義・功利主義・確率的な不遇や絶望』から理論化した思想だが、この人間存在(生の意味)の否定の思想を『感情・常識』ではなく『理性・ロジック』で否定することができるかを少し考えてみたい。

反出生主義は『最後はみんな病気・老化・事件事故・自殺などで死んで連続的な意識・記憶は何も残らないという帰結主義』や『人生には確かに快(良いこと)もあるが初めから苦痛(悪いこと)や悪意・死を感じる主体が生み出されないことのほうが全体の不幸が減るという功利主義』から、自分以後の誕生・生命を否定的に見る思想である。

デイヴィッド・ベネターは人の人生に『快・喜びが存在すること』には確かにプラスの価値があるが、人間の存在・意識が初めからなければ『快・喜びが存在しなくても(不幸・無意味にならないために必死になり、快・喜び・意味を感じるための努力や解釈がなくても)別に構わない』だろうと語る。それはそうだ、人間が誰もいない世界では快・喜びを感じる主体、そのために努力や競争をする主体がいないのだからという当たり前の話ではある。

そして、人間の存在・意識がある以上は誰かの『苦痛・悪意・絶望などが存在すること』は絶対に避けられないとして、そういったマイナスの境遇や認識・価値観が一定ラインを超えると(せっかく生み出すことに意味があると信じて生み出されたのに)『生まれてこなければ良かった(初めから自我・知覚がなければ何も感じず何もない状態が続いた)』という反出生主義に転換して苦しんだり死んでしまうこと(誰かを傷つけてしまうこと)さえあるのだという。

さまざまな条件を背負った人間が次々に生まれる以上は、確率的に誰かが不幸・貧苦になったり差別・迫害・侮辱を受けたり、重い病気になったり自殺したり犯罪者(テロリスト)になったり冷酷な独裁者になったりする。初めから誰も生み出されなければそれらの人間の存在・意識にまつわる問題や不平不満のすべてが解決されるというのが反出生主義だが、それはそうだろうとしか言いようがないといえば言いようがない思想である。

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