人生の楽観と悲観、どちらが良いか?:『道』を貫徹した信念の人・東浦奈良男さん

人生は楽観して気楽にやればいいとも、悲観して神経質に備えれば良いとも結論づけられないもので、数十年のプロセスで浮かび消える感情や関係も重要だ。状況により楽観と悲観も交替するが、畢竟『知識・能力(自律)』と『人・社会(他律)』の極を行ったり来たりしながら、自分なりに打ち込める『道』を進めるかだろう。

過去の偉人の評伝や同時代を生きる人たちを見ていて思うのは、各人の好みや環境、適性、思想などによって『道』の内容が『他者をそれほど要しない黙々と何かを継続する自律』に到達する人、『他者・社会の承認や他への貢献を目指す他律』に到達する人に分かれるが、道は無窮(未完の定め)である故に有限の人の希望となる。

あらゆる仕事や努力はそれを継続しつづければいずれ人の生物学的限界によって『絶頂から下降への運命』に晒される。結果としては誰もが『自らの老い・限界』を避けられない。だからといってあらゆる仕事・努力が無に帰すのではなく『無窮の道』に自らの生命力を投入し続ける事で『普遍・永遠に対峙可能な意味』が生まれる。

登山文学で特異な人物の評伝に『信念 東浦奈良男 1万日連続登山の挑戦』なる本がある。老登山者は近郊の山に1万日連続で休まず登る超人的目標を自らに課し1万日にわずかに及ばず老化に絡め取られ死没した。だが立てないまで衰弱する限界まで、山の高さを下げ登り続け、道中気絶しても医療を拒絶した。『道』貫徹の痛快事ではある。

約27年間にわたり、標高500メートル級の低山が中心とはいえ、60代から365日1日も休まず登山し続けるというのは、気候・天気・体調・社会的側面の変化など諸条件を考えれば、並大抵の道ではない。ボロをまとったその風貌から乞食と誤認される事もあったが、他に依拠しない自律・継続は世俗の測りを超えていた。

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