マナーと法律の境界線が消える。“他者からの迷惑”に我慢ならないが対話ができないという時代の環境管理型権力

戦後の無秩序な焼野原から高度経済成長期の工業の隆盛を経て、サービス産業・知識情報産業・人材管理が発達した現代に至ったが、私たちは時代が進むにつれて清潔(潔癖)になり異物・暴力に過敏になり、『自分ではない何者か』に自分と家族の権利や時間、健康、財産などをわずかでも傷つけられることに我慢できなくなり、『伝統共同体(ゲマインシャフト)の絆』はほぼ崩壊してお互い様の精神も薄れてしまった。

一切の汚れや乱れ、リスクを許容できないほどの『予定調和的な約束された路線』を求めるようになってしまった先進国の人間は、逆説的に『生存・生殖へのハングリー精神』を喪失して、『約束された人並みの安定した路線』を歩むための参加資格を得られないように感じるというだけ(経済社会・企業雇用・公務員職などのキャリアの正統性から逸れたと感じるだけで)でもう私の人生はダメなのだと自殺してしまうような脆弱なメンタリティが世を覆っている。

地面にわずかでも落とした食べ物は汚いから捨てなければならないし、パッケージが少しでも破損した商品は不良品だとクレームが来て、わずかでも形が変形したり黒ずんだ野菜・果物は市場で安く買いたたかれて、新品の洋服が少し泥や食品で汚れようものならヒステリックな悲鳴を上げなければならない、外のトイレは完全に清掃された新品に近い洋式トイレでないと安心して用も足せない(和式便器は子供にはもう使い方もわからない)、子供達の目線からすべての性・暴力の表現は消し去られなければならない……もはや自然の大地や生きるための欲望に根差した人間のバイタリティを発揮できる余地・足場(共同性・本能性の立脚点)が『快適でクリーンな現代社会』から失われようとしているように見える。

そろそろ歩きタバコを「法律」で規制すべきか?

無論、WHOや欧米先進国が主導する国際的な禁煙運動・健康増進運動の流れには抗い難いし、健康被害や煙害、火事の原因、保険負担増となるタバコを規制すべきとする疫学的・科学的・心情的(非喫煙者の心情)な『正論』にまともに反論することも難しい。

自由主義社会では『愚行権,不健康な飲食物や嗜好品を摂取する権利(食事と運動の健康的なライフスタイルを実践しない権利)』はあるはずだが、タバコは『有形・有害の煙』を風で周囲に飛散させたり『危険な火』を用いるので、『本人自身がすべてのリスクを引き受ける嗜好品』とするには喫煙者だけが集まる隔離型の喫煙専用スペースを準備しなければいけないという論理に行きつく。

タバコを吸わない私にはタバコが増税されようが歩きタバコが法律で規制されて処罰されようが(最終的にタバコそのものが法律で禁止されてしまおうが)、ある意味では『他人事』であり我関せずで放っておいても良い問題という面もある。

また『迷惑なマナー違反の喫煙・ポイ捨て』そのものは私も不快なのだが、マナーと法律の境界線が揺らいで、『他人が自分にわずかでも迷惑・不快を加える行為』は法律で規制して処罰すればいいではないかとの意見は、最終的には『個別隔離された個人の幸福・快適の追求(システムのコードとしての法律に従うだけの有害無益な予定調和で制御された個人)』の極点として、『共同体社会(他者と関わったり話し合ったりする中で物事が動いていく社会)』そのものが更に機能しなくなっていくだろうと思う。

近年、かつてのマナーが法律化されたり、犯罪が厳罰化されたりする流れは、『クリーンでコンフォータブルな現代社会』における共同体と人間心理の変質として興味深いし、そこにテクノロジーと科学知の進歩が加わることで私たち人類はもっともっと『不適切な他者の言動を事前に抑制できる・様々なリスクを環境側でコントロールできるシステマティックな管理社会』を自ら望む形に導かれるかもしれない。

私も含めて管理・統制・教育された近代文明社会への適応を進めてきた人間集団は、『文明社会・時代意識が導き出すコード(時代性にフィットしたルール・常識・感受性)』を正しい適応方略と認知することで生活を営むようになっているが、その先進的な社会運営システムでエラーとなるのが『コードを読まない(読めない)他者』である。

歩きタバコであれば、時代の価値観が変わったことをどうしても理解できない高齢者(認知力の低下の影響も含む)、昔のライフスタイルやニコチン依存からなかなか抜け出せない中年者、時代のルールやマナーの変化を知っていても意図的に反権威主義の悪さ(ルールに従わない自我の強さ)をアピールするヤンキー層などが、『コードを読まない(読めない)他者』となるだろう。

『コードを読まない(読めない)他者』にコードを読ませるために、かつては生身の人間がコミュニケーションコストを掛けたり、家族・友人・恋人など個別の関係性を生かしたりして読ませてきていたが、これが『マナーレベルの迷惑抑制原理』というものになっていた。

しかし近年では、迷惑行為やマナー違反に対してコミュニケーションコストを掛けてまでコードを読ませて注意しようという人はいなくなり、また穏当な注意の仕方やプライドに配慮をしても“逆切れ”されて暴行を受けたり殺されたりするリスクが意識されるようになり、『知らない他人の言動』を然るべき権限・立場にない人が注意することはできないものという常識が浸透してきた。

その結果、『コードを読まない(読めない)他者』にコードを読ませるために、『マナー』のように生身の人間同士のコミュニケーションを必要としない『法律』が要請されることになり、『注意・教育の善導』ではなく『逮捕・処罰の強制』によってコードを読めない人たちを排除する仕組みを求めるようになった。

『マナーと法律の境界線が消えかかっている』という現状は、日常生活の小さな迷惑や不快についても他者にそれをやめるようにお願いしたり交渉したりすることがもうできない時代なのだと社会構成員が認識し始めたことの現れなのだが、これはマナー違反をする人とそれを見ている人の意識の間に『倫理的な共通点・対話による相互理解』を信じられる要素が見つけづらくなった(注意してもどうせ聞く耳を持たないだろうし無駄だ・お互いに不愉快な思いをするくらいなら法律で規制して警察に任せたほうがいい)という風に多くの人が感じているということである。

歩きタバコの問題に関わらず、歩きスマホでもゴミのポイ捨てでも、自転車の信号無視(一時停止違反)でも、ゲートが封鎖された冬季の富士山登山でも、電車の地べたへの座り込みでも、未成年者のネットを介した事件(成人のネットの誹謗中傷)でも、学校のいじめや子供の非行でも、なんでもかんでも『人間同士のコミュニケーション・対話と交渉(説得)』ではなく『国家権力・法規制に依拠した強制力(厳罰化と隔離)』で解決すればいいではないか、環境をもっと管理・統制して未然に迷惑行為や危険行為、マナー違反を封じ込めればいいじゃないか(正論と正義の徹底、悪と非常識の駆逐が強制的に実現されれば素晴らしいと思う)という考え方を持つ人が増えている傾向が見える。

“他者からの迷惑”に我慢ならないが対話はできないという時代が、国家・法律の『環境管理型権力』の強化を要請していくわけだが、そこに透けて見える現代人の理想は『自分を不快にする迷惑な他者が消滅した自我の拡張されたような世界』であり、『偶発的・確率的な不幸や被害をぎりぎりまで抑え込んでいくゼロリスクの社会』である。

歩きタバコの法規制の話題から膨らませ過ぎたが、『細かな点の他者・環境・生活の至らなさや不満点』が目につきやすくなり、『システムで保護されて調整されたようなゴールが保障された人生』を望むようになると、人間の生存・生殖は本能的次元から次第に外れていきやすくなり、『思い通りにならない他者の存在』が障害物や不幸の原因のようにも思えて共同体社会の基盤が崩れやすくなる。

『過去のどの時代よりも安全・豊か・清潔な環境』が整ってきた現代社会は、『予定調和的な安定した未来』や『自分や家族に迷惑(不快)を掛ける他者の排除』を志向しながら、経済・文化のグローバル化による未来の大きな変化に適応できるか否かの不安を抱えている。

高度化する知識・意識・要求とそれに追いつかない不安定な経済・雇用・収入のギャップもあるが、『思い通りにならない共通点・共感ポイントの少ない他者(その言動や公共意識、考え方が我慢ならないと感じる他者)』をどのように捉えるかによって『生きやすさ・生きづらさの格差』も非常に大きくなるのではないか。

人によっては目につく人、目につく人のマナー違反や性格の欠点、生き方のズレ、価値観の対立が気になって仕方がない、そういった非常識で自分に合わない他者を見ているとイライラしたり何らかの処罰ができないのだろうかと思ってしまうという事もあるのだろうが、近代社会の理想である『万人の高度な啓蒙と行き届いた管理』が実現してしまった時には、人間の生存は今以上に政府や権力、法律といったシステムに全面的に預けられてしまうことになる、人間の本来的な生命力・生殖本能や実存的な生きる意味の実感は、(生存から死亡まで固有ナンバーで管理されて制度的に保護される)環境管理システムの中に無機的に溶け込んでいくかもしれない。