学校・職場のいじめは、どうして根本的解決が難しいのか?:社会的動物としての本能に倫理・理性の火は灯せるか。

いじめと聞くと記事にあるような『学校環境におけるいじめ』がイメージされやすいが、実際には『大人同士の社会関係(仕事・社交)』においても直接の暴力を振るわないいじめは無数にあり、各種のハラスメント(パワハラ・モラハラ・セクハラ・アカハラ・マタハラ等)が社会問題になって久しい。

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有史以来どころか類人猿の段階から、ホモ属の構成する社会にはおそらく集団内における弱者(ネガティブな特徴が目立つ異質な他者)を差別して攻撃・排除する『いじめ』はあったと想定されるが、『いじめの根本原因』は何かというと以下の4つに絞り込まれる。このいじめの根本原因は、社会的差別(排除力学)の根本要因でもある。

1.人間が社会的動物であり、特定の集団組織に所属する状況が多く、集団内でのポジショニング(優劣・居心地の良さ)を巡る『明示的・暗黙的な競争』があること。

2.人間の個人の外見・能力・意志(動機づけ)に多様性があり、『自己と他者との差異』によって自己価値の確認(あいつよりは俺・私のほうがマシだという自己保証)をする人が多いこと。

3.社会を共同体として維持するための『価値観の均質化・集団内の秩序形成・言動の同調圧力』が働き、共同体に所属しようとする個人である限り、その種の集団力学の影響(個人の倫理・意志を押さえつけてくる力学)から完全には抜け出せないこと。

4.家庭環境・親子関係・友人関係・学校教育を通して、『自尊心の傷つき・存在価値の不安定化』に脅かされるトラウマを負うリスクがあり、そのトラウマを解消するための『スケープゴート』を求める個人が絶対にゼロにはならないこと。

学校のいじめを減少させるための決定的な方法であればむしろ理屈としては簡単である。学校やクラスを『固定メンバーで構成され続ける共同体的な学校環境(いわゆるスクールカーストの秩序形成を促す環境)』ではないようにすればいいだけである。

小中学校のメンバー固定のクラス制を廃止して『学科ごとの講義制』にしたり、どこの学区の学校にも飛び入りできるようにしたり、校舎に通わなくて良いネット配信教育との併用を認めればおそらくいじめは相当減るだろう。毎日、同じメンバーで顔を合わせて学校に通えば、『親しい友人間のグループ(派閥)』もできるが『親しくない知人との区別』も生まれ、『気に入らない奴・合わないグループに対する認識や対立』も生まれるリスクがある。

だが、学校教育の目的は『知識教育(教科の勉強)』だけではなく『人間関係・擬似的社会環境の体験学習(=集団生活に適応可能な近代的な労働者・社会人を育成するための規律訓練)』もあるので、『小中学校のクラス制の廃止・友達関係の相互作用の影響の排除』といった教育政策は原理的に採用されることがないだろう。

高校生・大学生や大人社会でも悲惨なレベルのいじめが起こりやすい環境というのは、警察・自衛隊・体育会系部活をはじめとする『固定メンバーで寝食を共にするような共同体的な環境(親密なふれあいや仲間意識もあるがそこに必然の上下関係が芽生え、秩序のために異質性を排除・虐待することに罪悪感がなくなりやすい環境)』であり、『個人と個人がプライベート領域を確保して一定以上離れている環境・職場』ではいじめの問題は殆ど起こらない。

いじめが起こる条件として、『相手の人格・プライバシー』の内部まで土足で踏み込めるような親密さ・近しさがあるわけだが、幾らネガティブな異質性や抵抗力のない弱い雰囲気が目立つ人がいても、いじめる側は何の接点もない見ず知らずの相手をいじめることはまずない。

学校や職場などが同じであって一定の人間関係(上下関係の意識)やそこにかっちりと所属せざるを得ない必然性がある時に、いじめは常態化するリスクがあるわけだが、『社会的な関係性の接点が乏しい・その集団に深く所属していない(毎日その集団の場に集合するわけではない)』というだけでいじめは殆どなくなるか、深刻なものではなくなるだろう。

学校でのいじめに限れば、いじめを減少させるための対処法として、『いじめに対するゼロトレランスの懲戒(停学・退学・別教室授業の処分)』も有効であり、本来はいじめをしている側が別教室に移るべきであるが、現状ではいじめられている生徒が保健室登校をしたりしていることが多いのかもしれない。子女に普通教育を受けさせる義務や子供が教育を受ける権利などとの兼ね合いもあり、明確かつ深刻ないじめ事態の把握がなければ、『隔離的な教室分け』をすることは困難な事情もある。

または、いじめている集団の凝集性・連帯感を弱めるために、クラス替えの時に『いじめグループのメンバー』を同じクラスには配置しないようにして、教室を端と端に分けて集まりにくくしたり、休み時間に先生がそういったグループの周囲で話しかけ、それとなく行動を監視したりすること(いじめる暇を少なくすること)にも一定の効果はあるだろう。

それでも、少年の不良集団や暴走族にせよ、大人の暴力団や悪徳企業(詐欺グループ)にせよ、『類は友を呼ぶ』の集団形成原理は非常に強固であり、『悪い目的や行為のために集まる人と人を分断して、親しく協力しないようにすればいい』といっても現実的には特に社会環境の全体ではまず不可能である。

他者に危害を加える悪い目的の達成や行為の遂行をしようとする個人を、ひとり残らず啓蒙的かつ矯正的に教育をして『他者の痛み・苦しみに対する想像力と共感性』を培うようにすればいいというのは理想主義的な正論である。

だが、そういった悪しき動機づけや攻撃性を事前に挫こうとする正論の教育理念で、世の中からすべての悪が排除されないことは歴史と個人の人格の多様性が証明するところであり、また他者を侮蔑して虐待する人は、自分自身に対する評価や尊厳もまた低いというのが一般的な特徴でもある。

度の過ぎたいじめや犯罪をする人の多くは、自分こそが社会や運命の被害者であるというような被害妄想を持っていることが常であり、また自尊心や自己効力感の基盤となるポジティブな体験・記憶もないため、『自己と他者との力・立場の差』を誇示することでしか存在意義を保てない心理状態に落ち込んでいることが多い。

だからこそ、個人の多様性やネガティブな人格構造と合わせて、いじめや犯罪を撲滅するというところにまでは至らないし、そこまでやろうとすれば『恐怖政治の弊害(それも予防拘禁や虐待・拷問、異端審問の正当化といった別種のいじめを誘発する)』のほうが大きくなる。

確かに、大多数の人はいじめを身を張ってまで制止しない傍観者にはなっても、直接の加害者となるいじめまではしないというのは真である。だが、不特定多数の人間が『同じ場』に集合して『共同体的な同調・連帯と攻撃・排除の力学』が働き始めると、いじめの加害者と傍観者の意図しない共犯関係によって、いじめられている人は精神的に追い込まれてしまい、孤立無援感と将来の絶望感によって自己を否定する悲劇が起こりかねない。

大多数の人は、自分にとってよほど大切であり好きな相手のためにしか、積極的にいじめを阻止するリスクテイクな行動にはでないというのも事実である。『共同体的な同調圧力・加害者集団の報復可能性(集団内の影響力)』を考えれば、団結力のない傍観者がバラバラとその場に集っていてもいじめを確実に抑止する決断を行動に移せる個人は皆無に近い。

下手をすればいじめを止めて教育する責任がある教師までもが、いじめのからかいや教室内の笑いに軽口をたたいて同調してしまう始末であり、『個人としての良心・倫理・正義感』を知行合一のレベルで躊躇いなく行使できる個人はむしろ稀有であると言えるかもしれない。

帰属しなければならない集団の中に一人でも、『他者との差異』によって『自己の安全・優位』を確認したいモチベーションが強い人が紛れ込んでいれば、誰かを貶めてスケープゴートにすることで優越感や秩序感を得ようとする『いじめの問題』が発生するリスクは高まる。

そのいじめの問題は時に、『いじめられる側にも問題があるの論法』で正当化されたり、『いじられる(からかわれる)キャラとして固定されている人の役割』として茶化されてしまうこともあるが、自分よりも劣っている人や抵抗力(反撃力)のなさそうな人を軽く貶めて笑いのネタにするというのは、マスメディアが拡散している文化の一形態であると同時に、社会的動物である人間の本能とも関係する非倫理的な笑い(貶め・優劣の笑い)である。

人間社会のいじめの複雑さは、『近代思想の理念理想としてある個人の平等性』と『現実社会における個人の平等のフィクション性(個人間にある権力・魅力・社交力の差)』とのギャップを反映したものでもある。

積極的にいじめをしない人、直接的にいじめに加担しない人でも、『自分とあの人とは異なるという差異の認識』の延長線上に生まれる『他者に対する尊敬と侮蔑・好意と嫌悪・同類と異類の識別』と無縁ではいられない。

そういったある人とある人との価値(好き嫌い)の違いの認識が、個人では逆らいがたい『集団内の秩序・常識・同調(あるいは影響力のある集団が生む空気)』と結びついた時に、『いじめの正当化や傍観者化(どちらかといえば軽視していて好きでもないいじめられている他者を助けようとはしない自分の正当化)』に普段は良心的な人であっても、あまりに無力に呑み込まれてしまうだろう。

社会全体においても、そういった差別・いじめの根底にある『権力・階層・教養・経済力・仕事・倫理・外見・性的魅力・会話力・社交性などのメルクマール』はあまりに多く満ち溢れている。

子供社会の直接的な暴力や嫌がらせ、人格否定は残酷で稚拙なものだが、そういった大人社会やメディア、教育が無意識的に呈示しつづけている『どちらが優れていてどちらが劣っているかというメルクマール(集団に上手く適応して貢献しているか否か、社会的な落伍者や厄介者ではないかの本音のメルクマールでもある)』が、人並み以上である自分でありたいがために『他者』を攻撃して貶める行動を促進する。

集団内に居場所や有利な地位を確保したい、他者から下に見られてバカにされたくない(むしろ先にバカにして優位に立ちたい)、恵まれないと認識する自分のストレス解消をしたいといった、自己中心的で稚拙ないじめ・ハラスメントの動機づけは、子供も大人も大きくは変わらないが、人格構造が歪められた子供のほうがより『分かりやすい暴力・侮辱・嫌がらせ』となって行動化しやすいリスクがある。

いじめを原因とする『自殺・殺人・傷害・精神疾患・ひきこもり(長期の社会不適応)』といった問題をできるだけ有効に抑止していくためには、深刻ないじめの関係・環境から被害者の子供を早く遠ざけて守ってあげること、いじめがエスカレートする前に加害者の子供を早く指導して大きな過ちを犯さないようにすること(反省しても既に遅い悪質ないじめは犯罪として処遇したり停学・転校などの懲戒処分を行うこと)が必要ではないかと思う。