“自国のために国民を戦わせる政府”の無能、“外国人の生命・人生への自然な想像力”を遮断させる教育の危険

政府主導の国家間の戦争を拒絶したり戦闘・威嚇に協力しないということは、自分たちの生活領域に攻め込まれても何も抵抗しない、自分や家族、友人が攻撃されても対抗しないという『無抵抗主義』とは異なる。

政府が外交や安保に失敗し続けて戦争に巻き込まれる可能性は、現代の日本では意図的に軍事重視・国民困窮化(格差拡大)の政策にシフトでもしない限りは低いが、仮に目の前で戦闘行為が自分たちに仕掛けられれば、戦争反対の平和主義者でも自衛のための戦闘・避難・ゲリラ活動は行うだろう。

それは戦争に賛成か反対かのレベルの判断ではなく、法権力が担保する秩序(暴力の絶対禁止)が解体した状況において、人間に保障されるべき自然権の行使だからである。

『戦闘前からの好戦的姿勢・軍事重視・国家主義に反対すること』と『戦闘後のやむを得ない自然権の行使(殺されない自衛のためのレジスタンスやゲリラの闘争)』は矛盾なく両立する。

常日頃から、自国のために戦うべきだ(戦わない奴は非国民だ)とか悪意のある外国が自国を侵略したがっている(その外国の人間は自分たちより人間性や道徳が劣っている)とかいう『国家単位の争いごとの不可避性・仮想敵の設定やそれに対する攻撃性』を口にしない平和主義は、『専守防衛の備え・宣言』や『近隣諸国との友好関係の誘いかけ(政治・経済・観光・文化娯楽などの交流促進)』と両立するということである。

また中国程度の外交力・経済力のある国であれば、時間はかかっても直接的な軍事衝突を回避しながら、相互理解を緩やかに深めていくことは十分可能であり、いたずらに安全保障上の危機や将来的にぶつかる運命の仮想敵(まともな話し合いができない相手)として中国を敵視した対応を取り続けることのほうが、『予言の自己成就・認知バイアスによる争いの実現』のリスクを高める。

日中の経済の相互依存性や両国の人々の移住率、経済的・文化的・価値的な交流の促進を考えれば、中国国内の不安要因・格差拡大などの潜在リスクはあっても、日本と中国は対話が全く成り立たないほどの険悪な関係にあるわけではない。

イスラム国(ISIS)やアフリカのイスラム過激派と比較すれば、中国は不意打ちの侵略・虐殺・奴隷化を繰り返すほど対話不能な野蛮さ・一方的な攻撃性を極めた相手ではなく、とりあえずの対話の舞台には乗ってくるし政治面でも経済面でも様々な交渉を行ってきた相手である。

実際に中国を訪れた日本人や日本を訪れた中国人は、『行く前よりも行った後のほうが中国(日本)・中国人(日本人)に対して良い印象を持つことができた』という感想を抱くことが多い。

特に、観光・留学に来た中国人(労働に来た中国人には不満もあるようだが)は『政府や学校で教えられてきた日本人の悪いイメージとは全く異なる礼儀正しくて親切な人たちが多い・大学では歴史認識の問題についても日中双方の中立的な立場からの自由な議論が可能で日本人は自国の利益ばかりを主張しているわけではない』という誤解を修正する印象を自国に持ち帰っているし、中国メディアも日本をバッシングするだけの記事ではなく中立的な記事を掲載する所も少なからずある。

現代の先進国では日本だけではなくEU諸国でも『自国のために戦うという国民の比率』は低くなっているが、それは第二次世界大戦以前の時代と比較して『個人の自由・権利・豊かさ・情報量の拡大』が進み、『運命共同体としての国家の強制力(無知や貧困、純粋を前提とした国民支配・国民洗脳の強度)』が弱まったからである。

更に、『外国人の実際の人間性・気持ち・生活状況への想像力』が高まったからであり、かつての鬼畜米英やチャンコロのような侮蔑表現に投影される『自分たちとはかけ離れた冷酷・無知な人間性を持っている外国人(自国民よりも生きる価値の乏しい戦闘で殺しても良い外国人)』といった妄想・洗脳は、一般的な知性教養のある国民にはもはや通用することがないからである。

イスラム国(ISIS)や過激派のテロリスト、北朝鮮・途上国の独裁国家の軍関係者(テロ要員)の一部には、確かに一切の対話・交渉の機会さえ受け付けずに一方的に侵略・暗殺・破壊工作を仕掛けてくる勢力・個人もいるかもしれないが、そういった一方的な攻撃に対しては警察権や自衛権を発動して、戦闘被害をできるだけ拡大しない形で抑制するしかない。

一方、日本が直接的に対峙する近隣諸国を構成する人々の大多数は、先日の『ケニア大学のキリスト教徒を一方的に虐殺したテロリストほどの狂信性・残虐性・対話不能性(洗脳された精神構造に依拠する殺害そのものの自己目的化)』を持っているわけではなく、私たちと同じように学んだり働いたり買い物をしたりコミュニケーションをしたりしている人たちであり、話し合おうと思えば話し合えるだけの理性や人間性を備えた人たちである。

『自国のために戦うか否か』という質問は、『国家・民族・宗教の単位で敵と味方に分かれて殺し合う図式の運命性(外国人・異質な他者は自分たちよりも生きる価値が低く殺されても仕方ない)』に洗脳された精神構造を持つ人には有効な質問であるが、現代の先進国に生きる人たちの多くは自然権・自衛権の発露(相手側からの一方的な侵略・虐殺・奴隷化など)以外で『他者・外国人を殺しても構わないほどの正当性や大義名分』を見出すことが難しくなっている。

人間ひとりひとりを、国家・民族・宗教・勢力に所属する『無機質な構成要素』とみなすことによって、政治的・集団的な殺戮を心理的に正当化する契機が生まれるが、現代では意識・意思疎通の持ち方においても実際の生活様式・人間関係においても、人間ひとりひとりに対して自国民であっても外国人であっても『自分と同じような心・人生・関係を持っていない存在(場合によっては殺しても構わない、あるいは殺して口を塞ぐしか自分たちを守る手段がない話の通じない存在)』として認識することが困難になっている。

異質な外国人や敵対勢力の要員であれば、その人を殺しても良いという条件設定を有効にするためには、そのための洗脳的・画一的な国民育成の教育(異論・思考・想像力を剥奪する戦闘マシンとして動ける教育)が必要であるが、現代の世界全体の趨勢としてはグローバリゼーションや文化交流・人材交流(異文化・異民族との相互理解)の進展も含め、そういった集団単位の闘争・グループ分けを前提とした『異質な他者の殺戮による利益獲得を是とする旧来的な価値観』はどちらかといえば劣勢に追い込まれている。