日米戦争における広島・長崎への原爆投下を日本・米国はどのように解釈すべきか?:戦争終結・戦争犯罪(人道の罪)

原爆投下は開発した最新兵器を試したい米国の意図があった。客観的には市民を大量虐殺した戦争犯罪だが、御前会議における一億玉砕の徹底抗戦論者を諦めさせる役割を果たした一面も確かにある。

「原爆が日本を平和主義にした」 米紙コラムなぜ書いた (朝日新聞デジタル – 08月10日)

日米戦争の敗戦がなければ、日本の内発的な自由化・民主化はなかっただろうし、天皇の威を借る軍部の政治的な影響力が強いままで、議会政治は骨抜きにされただろう。『軍・軍産複合体の自己保存』のために、現代の米国・中国・北朝鮮のような仮想敵の設定や示威行為を繰り返さなければならない情勢が続いたかもしれない。

近代国家が腐敗したり予算が拡大したり人権が抑圧される原因の一つは、一度大きくなった公的組織の規模や予算、俸給を減らす事が難しい『官僚機構の自己肥大・自己保存』にある。これは軍と官僚機構を入れ替えても成り立つ。軍も官僚機構も自己保存のため『次の仕事や敵』を自ら作り出し、その必要・危機を喧伝する。

1930~1940年代、政府のシビリアンコントロールも効きにくくなった軍部は、大東亜共栄圏のポピュリズムの後押しを受け、関東軍などが暴走し始めた。軍・戦争に反対すれば密告・暗殺の恐怖があり、軍に賛同しない国民は『非国民』として非難されたが、民意を受け戦線拡大する日本軍の自己保存を抑制する手段はなかった。

天皇・国家・軍の維持繁栄のために国民が存在しているという価値観と教育・世論が支配的であった。原爆・敗戦・玉音放送は『日本軍を統帥する天皇以上の影響力を持つ占領者=米国』が到来する契機だったが、占領下で米軍が日本軍以上に日本人の人権・権利を尊重して経済も発展した事で歴史評価・国民感情のねじれが生まれた。

『原爆・敗戦・米国の統治・日本国憲法』における日本人の歴史観の大きなねじれは、『明治憲法下で日本が独立していた時代』よりも『米国の庇護下にあった戦後』の方が人権が守られ経済も発展して生活が豊かになったという事がある。戦前の日本は主権を持ち独立していたが、日本国民の生命や権利を大切にしなかったねじれ。

冷戦構造における日本への影響力拡大という米国の利益があったが、心のない鬼畜米英としてあれほど恐れて憎んでいた米国人が、意外にも旧日本政府よりも苛烈な支配や虐待をしなかった事、娯楽的な明るく楽しいアメリカ文化が普及した事、軽武装路線で経済発展できた事が、親米意識を高め原爆・空襲の歴史的怨恨を晴らした。

政治体制・経済発展・国民の教育水準が重要で、国家主権や民族の自立は『結果としての繁栄・幸福』まで保証するものでないことは、北朝鮮やシリア等を見れば分かる。『国民の自由を大幅に侵害するブラック国家』を経験したトラウマ、『無責任なポピュリズムに酔った自己嫌悪』が綯い交ぜとなり戦後の親米日本が形成されたか。

しかし現代日本は『政治の機能不全・経済発展の停滞・国民生活の窮乏・高齢化による社会保障の行き詰まり・米国の変化』によって、今度は『戦後日本の体制や価値観が悪かった』という保守反動のバックラッシュを起こしやすくなっている。戦争末期のブラック国家の悲惨な記憶も薄れ、逆に『戦前レジームの理想化』も起こる。

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