「現代思想」カテゴリーアーカイブ

『イブの時間』から見る未来における人とロボットとの関係・欲望:想像したものを実現してきた科学技術とリアルから離れるヒト

SFの小説・映画では20世紀から既に、人間とほぼ同じ形態をして人間以上の機能を持つ『ロボット(人型アンドロイド=ヒューマノイド)』が創作されてきたが、人間と複雑なコミュニケーションや共同作業をする高度なロボットの多くは『モノ』ではなく『擬似的なヒト』のように扱われることも多かった。

AI(人工知能)の高度化によって、ヒトとロボットとをコミュニケーションレベルでは区別できなくなった時(解体・解剖して中身を見なくてはヒトかロボットかわからなくなった時)に、『人間とロボットとの関係性』は必然的に質的な変化を起こすことになり、人間の中に『人間よりもロボットに対する欲望(愛着)』を向ける人たちが出現してくる。

その影響力は、現在もある二次元的な創作物(アニメ・漫画)のキャラクターへの感情移入や三次元的なポルノグラフィーの視聴覚刺激を遥かに凌ぐものとなる。本当にロボットのクオリティが高まった時(実際にお手伝い・育児・介護・セックスなどができる人の働きをほぼ全面的に代替可能なロボットが販売された時)の市場規模の大きさは想定不能なほどに大きいともされる。

近年の映画(アニメ)では『her』『イブの時間』『エクス・マキナ』などが、そういったロボットやAI(人工知能)が、人間の関係性や倫理観、関心・欲望に大きな変化を引き起こす近未来を題材にしていたが、『her』では人工知能の身体性欠如(セックスの不可能性)が主役の男を葛藤(夢想)させ、生身の娼婦をピグマリオン(操り人形)にした人工知能が主役の男を満足させようとして余計に関係性が混乱する(最後は同時に何万人とでも感情を込めた外観の交信ができるAIの倫理観の自由度と知性の高さに男の恋愛感情は追いつけなくなる)面白い展開もある。

『イブの時間』は、直接に『人間のロボットに対する感情移入の個人差』と『ロボット・ライツ(ロボットの権利)の承認・ロボットの心(自意識)の推測』がテーマに据えられており、ロボットを恋人や友人のように錯覚して感情移入しすぎる人を『ある種の依存症の精神疾患』のように分類して、ロボット倫理委員会が頻繁に『アンドロイド依存症はダメ』と啓発するテレビCMを流している。どことなく、今のスマホ依存症(ネット依存症)はダメの啓発とも似た部分があるが、いつか来た道はロボットでも繰り返されるのかもしれない。

人とロボットを分かりやすく区別する指標として、ロボットの頭上にはホログラムの輪を出すように義務付けられている。自分がリアル優先のマッチョであることを標榜したり、雇用・関係性の面でロボットに脅威を感じる人ほど、ロボットを『非人間のモノ』として乱暴かつ侮辱的に取り扱い、『人間の特権性(人権を持つのは人間だけ)』を誇示するようになっていて、ロボット反対運動も頻発している。

主人公の男子高校生は人間とロボットを区別しない『カフェ(イブの時間)』をベースにして、カフェにやって来るロボットや人間を観察したり会話したりしながら、ヒトとロボットとの関係性をあれこれ考える。

『捨てられた壊れかけの旧式の野良ロボット』や『主人公の友達を子供時代に育てていた旧式の育児ロボット』を題材にして、『ロボットの持つ記憶内容』からロボットの感情・人格が推測される。

友達の父親は、ロボット倫理委員会に所属しておりロボットへの過度の権利認定や感情移入に反対している人物で、息子が育児ロボット(旧式なので見かけはヒト型ではなくいかにもなロボットだが)に慣れ親しみ過ぎないように、ある時期から育児ロボットに言葉を一切話さないように指示した。

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中年期になって気づくこと・分かること:『若さ至上主義・外見重視』に呑み込まれ過ぎない中年期・老年期の乗り越え方

中年期になっても主観的年齢は『考え方・努力・美容』である程度若くいられるが、『絶対年齢・老いと死の接近・他者が中年者と見る現実』は変えられない。

中年になって気づいたこと 「野菜がおいしい」「学力よりコミュ力の方が大事」「人生のピークは30歳」

ユングのいう老賢者の元型が通用しづらくなり、現代文明は若さ至上主義(アンチエイジング)やエイジハラスメントの弊害も生んだ。『老』は仏教の四苦の一つで、中年期以降は動物として『衰退・限界』がでてきやすいが、経験・知性・関係を土台にした『中年以降の主観的な意味・目標・楽しみ』には成長発展の余地もある。

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セクハラやパワハラ、モラハラが増加する『現代のハラスメント社会』をどう生きていくべきか?

ハラスメントには『他者の過度な侵入感・支配性』がある。男のセクハラには、拒絶を恐れて冗談の防衛線を張った『間接の性的関心・誘惑・評価』が含まれ、それが性的嫌がらせや侵入感になりやすい。

「セクハラ発言が許容される社会へのモヤモヤ」詩人・文月悠光が語る、女性の生きづらさとは

セクハラは『見る性・見られる性』『社会経済的な力関係・ポジション』『性別役割規範のジェンダー』の男女の非対称性によって生み出されやすい。近年は男性も『外見・性的魅力の目線や評価』に晒され愚痴や不満は増えている。男でも女でも『他者から不躾に品定めされるような目線・言葉』を受ける事は一般に不快である。

しかし厳密にはセクハラにおいて『男女の平等なポジションや被害感』は成り立ちにくい。『男性・女性のセクシャリティ』の差異は、男性側の性的欲望・視覚刺激(女性の身体性への幻想)の強さによって規定され、『女性身体=性的なオブジェクト』のように男性身体をまなざしてあれこれ品評する女性はどうしても少ない。

確かに、女性にも男の身体性について『胸・腕・尻の筋肉が好き,全身のフィギュアや顔立ち(目・鼻・口)が好き,性の好きなムードや感覚』はあるかもしれないが、男性のような女性身体(胸・口腔・性器等)に対する執拗な視覚・言葉のフェチシズムには到底及ばず、女性でさえ女性身体にエロスを感じる人が多いといわれる。

セクハラの根源には、遺伝・形態・生理も含んだ『男と女の差異』が横たわるが、社会的・表面的には『理性・知識・配慮』での抑制が可能である。だが性的にまなざして欲望して比較する内面自体に、一定の侵入性・暴力性が潜在し、それを表現・伝達・干渉した時に、受け取る相手によってはセクハラや性暴力になる。

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なぜ日本のリベラル勢力(リベラル政党・左派)は衰退したのか?:リベラリズムの歴史と自由主義・福祉国家への分裂

戦後日本にはリベラリズム(自由主義)を対立軸とした政党政治の争いはそもそもなく、日本国憲法が個人の権利保障としてのリベラリズムを根本で規定し続けてきた。リベラルの反対は自民党的な保守主義でもない。

なぜ、リベラルは勝てないのか 田原総一朗vs花田紀凱

リベラリズムの原点は『個人の自由の保護』であり、古典的なリベラルは『国家権力に強制・干渉されない自由』を求め、経済が発展して社会に余剰が生まれると『国家権力による福祉的な再分配の自由(生存権・社会権)』を求めるものへと変質していった。現時点の特に米国のリベラルは後者の『福祉国家・大きな政府』に近い。

リベラリズムの原点は自由主義という言葉のままに『個人の自由を尊重する思想』である。古典的リベラルは『国家のための国民(国家権力の強化と国民の忠誠・統治)』ではなく『個人のための国家(国家による個人の必要限度の保護)』を志向する。ラディカルになればリバタリアンやアナキストにまで個人の自由が拡張する。

リベラルは平たく言えば、国家(統治権力)があってこそ国民の生存があるのだから究極的に国民より国家が上である(国家は国民に生命・財産を捧げるようにとの教育や命令もできる)という権威・統制主義に対抗する思想だ。つまり市民=主権者が権限移譲する社会契約で国家は暫時の権力を認められたに過ぎないと考える。

リベラルとは何かを一言で定義しなさいと出題されれば、『基本的人権の不可侵性を重視して人間の自由を尊重・拡大していく思想』と答えれば、概ね歴史的なリベラルの変質も包摂した回答になる。リベラルは『平和主義・福祉国家・弱者救済・死刑廃止・個人主義』と相性が良いが、それらは人権保障のバリエーションである。

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計画経済の閉塞感に包まれる現代社会の老後の不安と若者の憂鬱:若くして老後を心配させられるシステム・負担増加

現代の経済成長・人口動態が停滞した『福祉国家・老後保障制度の不幸』は、生まれながらに80~90代まで生きる計画経済に嵌め込まれ、20代でさえ『老後が心配な老人の精神』に侵されて守りに入りやすい事だろう。

<老後の不安>非正規労働者は76% 正社員69%  (毎日新聞 – 06月06日 10:52)

超高齢化社会・福祉国家の連動は、ただ高齢者が増え経済が停滞するだけでなく、メンタル面のアグレッシブな若者が減る副作用がある。20?30代から『財政危機・高負担を前提とする計画経済・予定調和』のフレームワークで考えざるを得ないから、資本主義の先進国も実質は身動きできない社会主義の末期状態に陥る。

現在の国家予算のうち約5割は『国債償還費・社会保障費』だが、社会保障負担は一般会計よりも特別会計のほうが大きい。保険料負担を含む社会保障総額は年間100兆円を超えた。一般会計で年1兆円増える、トータルでは年3~4兆円で社保コストは増える、今不十分とされる年金・医療介護の現状維持も相当な負担増が要る。

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“ひきこもり・無職”は個人の問題であると同時に、スケープゴート化されやすい現代日本の不適応問題(社会の喪失・労働価値の低下)でもある。

ひきこもり・無職(ニート)の問題は非常に扱いが難しく、『精神疾患・発達障害・不適応・意志欠如・怠けの個人の問題』『甘やかし・過保護・過干渉・児童虐待・いじめなどの家族や学校の問題』に還元する人もいれば、『労働市場(即戦力としての経験やスキル)・履歴やキャリア・人材評価・経済構造(企業の対応や景気)の社会や企業の問題』に還元する人もいる。

実際にひきこもっている人の中には、統合失調症・重症うつ病・適応障害などの明らかな精神疾患の症状を呈している人もいれば、精神的に落ち込み気味で意欲や覇気はないが精神病理のレベルにまでは至ってない人もいれば、それなりに健康な精神状態ではあるがなかなか社会に出て働く意志や気力が起きない人もいれば、それなりにコミュニケーション力があって遊び・娯楽目的の外出ならできるという人(ひきこもりというより自発的失業の持続に近い人)もいるだろう。

ひきこもりやニートの中には、明らかに知的能力・職業能力・対話力が低いために社会に出ていけない人たちもいるが、高学歴者・潜在的能力(コミュニケーション力)の高い人も含まれている。そういった能力が低いわけではないひきこもりの人たちの多くは『自分の持つ知識・技術・経験』などを金銭(収入)・職業に変える方法・手段がわからず(捨てられないこだわり・プライドなどから)適当な職種の労働者になりきることもできずにくすぶっていることが多い。

ひきこもり・無職者の問題の難しさは、『個人主義・自己責任・市場原理の先鋭化』と『経済格差・雇用格差の拡大(一般的な労働条件・所得水準の悪化)』によって強まり、特に消費文明が発達して労働者としての主体性が揺らぎやすい先進国ではその数も増加しやすくなる。

端的には『ひきこもった後の社会復帰・再就職の難しさ』に加えて『社会参加してもどうせ最下層(低待遇)でやりがい・昇進昇給のない立場に置かれるという諦め』が加わりやすいが、現状はずっと真面目に働いてきた人でさえも非正規雇用や低賃金の待遇、解雇などの冷遇を受けることが多く、『ただ何でもいいから働くことによって満たされる欲求・自尊心』が過去に比べてかなり低くなってしまっている(それどころか働いてもなお貧困で前向きな将来の展望もない人が増えている)のである。

成熟から衰退へと向かう先進国の消費文明社会では、『働くことの技能的・心理的なハードル』が上がりやすいが、様々な知識・技能を身に付けて働いたとしても『好きなジャンルや職種の仕事(内発的モチベーションを高めて仕事そのものを楽しめる仕事)』にありつける可能性は小さくなっており、『ただ働くだけで満たされる欲求・自尊心(極論すればただ働いているだけの状態は、ただ働いていない人よりも社会的・経済的に有益であるという視点でしか評価されづらいのでひきこもりはバッシングされやすい)』もかなり小さくなっている。

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