「思想哲学」カテゴリーアーカイブ

安倍首相の歴史的使命としての『憲法改正』と『歴史認識・国家観』について、庶民として考えておきたいこと:1

安倍晋三首相は憲法改正を歴史的使命にしていると主張するが、自民党中枢の安倍首相・石破茂幹事長などが目指している『改憲の方向性』は、『立憲主義(国民の人権保護の原則)』に違背する国権強化であったり、戦後日本の歩んだ平和主義の路線を『中国脅威論・集団安保(米国追随の集団的自衛権)・軍事力強化(専守防衛の放棄)』で転換させようとするなど大半の国民にとって必要性の薄いものである。

改憲「私の歴史的使命」…首相として初の墓参り

日本国憲法と普遍的な倫理主義を中心においた『戦後レジーム』を否定し、大日本帝国時代の統治原理や国民(臣民)の国体への自発的奉仕を理想とするかのような安倍首相の歴史観は、現代の中国が歩まんとしている『かつての日本のエスノセントリスティック(自文化中心主義)な歴史』を再びなぞり直すような危うさがある。

日本国憲法を改正することそのものに問題があるのではなく、かつての大日本帝国時代のような『個人』を『全体(国体)』の道具になるように教育・統制する社会体制や権利が制限された国民意識のほうが、現代よりも望ましいとする本音の部分にある『ノスタルジックな国家観・歴史観』に危うさを感じる。

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米兵の捕虜虐待が話題となった『アブグレイブ刑務所』が襲撃され、500人以上の服役囚が脱走。

イラク 2刑務所襲撃 500人超脱走か

アブグレイブ刑務所は元々は、1960年代に独裁者のサダム・フセインが建設した『反政府勢力の拷問・処刑の施設』だったが、フセイン政権が崩壊した『イラク戦争後』にはアメリカの勝利とイスラム過激派(反米武装勢力)の押さえ込みを象徴する建造物として意識されることになった。

2004年にアブグレイブ刑務所で米軍によって行われていた『大規模な虐待・拷問・レイプ(同性愛・自慰の強要も含む)』などが明らかとなり、ジュネーブ条約やアメリカ国内法に違反しているそれらの捕虜虐待は国際社会から厳しい非難を浴びて、米軍は軍法会議を開いて虐待・拷問を主導した幹部級の軍人を厳罰処分にしている。

最も有名な事案は、にっこりと笑顔を浮かべた男女の米兵が、イラク兵やアルカイダ兵の捕虜に覆面を被せて裸にして這い蹲らせ、その上に乗ってピースサインをしている写真を撮影したというものだが、それ以外にも膨大な非人道的な虐待・拷問の証拠資料が集められている。

虐待・拷問に集団心理で参加したアメリカ兵の言い分は、仲間を無慈悲に殺したイラク兵やアルカイダ兵(テロリスト)に対する怨恨・怒りの憂さ晴らし(代理的な復讐行為・敵兵の自尊心の破壊)をするために、性的な虐待や残酷な拷問をしたが、それをしている最中には良心の呵責を殆ど感じることがなかったというもので、現代のハイテク戦争でも『戦争・戦場の狂気(国際法を無視して仲間を殺した敵兵を辱め苦痛を与えようとする動物的な本能)』を無くすことができない悲惨な現実を先進国に突きつけた。

アブグレイブ刑務所は2004年5月に、米軍が大規模な捕虜虐待問題の発覚により捕虜の収容を停止した。現在では米軍からイラク政府に移管されているが、『バグダード中央刑務所』として政治犯・テロリストの収容だけに限定しない刑務所として機能しているようだ。

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ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム論』から“人間の性・死(暴力)・労働の本質”を読み解く:3

近代のロマンティックラブ・イデオロギーほどの熱烈で狂気的な恋愛は、安定的な結婚・生活の次元にソフトランディングしてずっと良好な関係が続かない限りは、別離や孤独に耐えられないメンタリティのために、『殺人(心中)・自殺・ストーカー・身の持ち崩し(無職化・ホームレス化)』などのラディカルな悲劇・自滅(他害)に結末することになる。

この記事は、『前回のバタイユ関連の記事』の続きになっています。

世界大戦後の後期近代の物語の主軸は『恋愛・結婚・家族』であり、人によっては好きな異性と結ばれて熱烈な恋愛をして安定した結婚をして家族を築いていくというのが『人生における最大の価値(それがなければ生きている価値が殆どなくなってしまうもの)』となり、『パートナーのいない人生(パートナーや家族から切り捨てられて一人で生きていく現実)』に本当に耐えられずに正気を失ったり犯罪行為にまで逸脱していく人(犯罪をしなくても自殺・無気力化・ホームレス化も含め)もある程度は出てくる。

生涯にわたって安定的に帰属できる伝統的共同体を喪失した現代人にとって、『孤独・愛情不足』は大半の人にとってかなりの心理的ダメージとなるのは確かであり、『男女関係・家族関係のトラブル』をそんなことくらいで犯罪や自滅的行為に走るのは心が弱いからだと安直に言い捨てることはできず、『異性・家族・仕事・金銭・地位・意欲を持てる活動(学び)』などの俗世的な価値や承認の要素のすべてを失ったと感じる時には、人間の精神は意外なほどの脆さを持って壊れることもあるからである。

バタイユは恋愛は肉体の結合に加えて精神の結合をも目論む『不可能性の追求(失敗に終わる企て)』だとして、恋愛は必然的に苦悩の原因にもなるとしたが、『完全な孤独を回避したい人間の本性』が、苦悩につながるとしても恋愛的な『自己を特別に承認してくれる他者』を求めずにはいられなくするのだと語った。

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ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム論』から“人間の性・死(暴力)・労働の本質”を読み解く:2

暴力と無秩序な性は、今日(今すぐ)ではない明日の収穫(快楽)に期待する生産的労働によって生存を維持する共同体の存続を危うくするが、『労働・協働の時間』は原始の人類の意識と関心を『動物的な暴力・性』から次第に引き離していったのかもしれない。あるいは動物的な暴力・性ばかりに明け暮れて労働に関心を持てなかった原始共同体(非生産的・本能従属的な部族)は、他の生産的で協力的な共同体から討ち滅ぼされて絶滅への道をたどっただろう。

この記事は、『前回のバタイユ関連の記事』の続きになっています。

十分な理性と自己規律(自律性)を備え始めた近代以降の教育を受けた人間は、『労働抜きの暴力の禁止』を受け入れ始めた。だが、近代以前には『小人閑居して不善を為す・働かざる者食うべからず』といった宗教的格言が示すように、『直接的・即時的な欲望を自制できない(教養・倫理・自尊の軛が不十分な教育や哲学的陶冶を受けていない)個人』に対しては、労働(その多くは思考力を奪う単純肉体労働)によって本能の欲望を遷延させたり時間的余裕を制約したりするブレーキ(労働で疲れることにより時間・欲望の余剰を暴力に転換できなくする生活リズム)が必要だったのである。

暴力と性の本能のすべてがなくなったわけではないが、ホモ・サピエンス・サピエンスとは『本能を部分的に破壊した特殊な動物』としての側面を持っている。ジョルジュ・バタイユや日本文化(個人体験)に対応する精神分析を研究した岸田秀は、妊娠出産を目的としない性行為のほうが主流となった人間を『本能が壊れた動物』として再定義し、エロティシズムについても『動物的・本能的な子作りにつながる性』から遠ざかれば遠ざかるほどに、人間は性的に興奮する特殊な性癖を獲得したという持論を展開した。

バタイユはエロティシズムの本質は『禁止と侵犯』にあるとして、『性(誕生)と死の類縁性』を指摘した。『禁止・禁忌』はそれを破った後にある背徳的な快楽や社会超越的(全能的)な栄光と裏表の関係にある。人間にとっての性行為も『禁止(わいせつ・羞恥・性道徳・動物的堕落の嫌悪など)に対する侵犯』によって興奮する仕組みを持ち、『あからさまな解放・制限や選り好みのない性(いつでも自由に行為ができるという日常性・秩序性)』はエロティシズムの魔術的な魅力を失わせてしまうという。

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ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム論』から“人間の性・死(暴力)・労働の本質”を読み解く:1

人間と動物を隔てるものとして旧石器時代後期(10万年以上前)に生まれたのが『死のタブー』であり、その具体的な現れとして『埋葬(葬儀)の慣習・死者への畏れ』が出現し、太古的な宗教感情の原点となった。自身と他者がいつかは必然に死にゆく存在であるという有限性の自覚、死ぬこと(=現世からの自我の消滅)が恐ろしいという感情は、人以外の動物には見られない。

人間は『死のタブー(死の自覚と禁忌・死の怖れと畏れ)』ゆえに、動物としての本能を薄められて、計画的な人生設計(死後の世界への夢想)を立てなければ不安で堪らないという呪縛に絡め取られた。『有限の生の意味と価値』を少しでも実感したいという儚い執着が、共同体(国家や民族)・宗教祭祀・子孫繁栄・進歩的世界観などの『観念的構想物による救済物語』を産み出していった。

文明社会や科学技術、経済成長が実現してきた快適さと豊かさ、新しさ、官能は『胡蝶の夢』のような刹那の喜びを私たちに与えてくれ、『いつかは無に帰すという宿命性』を忘れさせてくれながら、個人としての力感を回復させてくれる。私の人生や知性、感情はナンセンスなものではないのだというエンカレッジの呼びかけとなって。

『私が滅びた後にも“私の何か(子孫・作品・文明・国家・民族・思想・宗教など)”が永遠に続いていく』という信念によってニヒリズム(虚無)の暗渠を人類は飛び越えていき、本能を抑制する人間的理性によって『労働(生産的協働)』と『社会形成』を可能なものにした。人間の理性は原始・古代から中世、近代から現代にかけて留まる事なく伸長してきたが、理性は人間集団の本質を『本能の禁止』と『労働(生産)の規範』に導いていき、禁止される本能とは直截に『死(暴力)』と『性(生理的快楽)』を意味していた。

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攻撃的なウェブ情報(まとめサイト)で強まる『ラディカルな政治思想・排外主義(嫌韓嫌中)』:国家間問題と個人の属性・主張(言論の自由)を切り分けるということ。

『集団の形式的な一体性』と『個人の実際的な多様性』を区別しない典型的な弊害の問題として『一般市民を標的にしたテロリズム』があり、『敵対していると見なす相手国』を攻撃したり政策を転換させるために、『敵対的な思想や差別を持っていない可能性も高いその国の一般市民』を脅したり傷つけたり殺害したりするのである。

この記事は、『保守派(右派)の言論活動の台頭と『失われた20年』を通した日本国民の意識変容:仮想敵と見られ始めた中国・韓国』の続きになっています。

北朝鮮による拉致事件の国家犯罪の最大の問題も、日本を一方的に仮想敵にしている北朝鮮が、『敵対的な思想や差別を持っていない可能性も高い日本の一般人』を暴力的に拉致したことにあり、『国家間の対立問題(敵対国への示威・恫喝)』を理由にして『一般市民の生命・身体・尊厳・財産』に危害(恐怖心)を与えるテロリズムやヘイトスピーチは現代では許されないと考えるべきだろう。現代の巨大化して相互依存性を強めている国民国家は、古代ギリシア・ローマのポリス(都市国家)のように一般市民がすべて戦士となって戦う『戦争共同体』ではないし、思想教育された常備軍を整えて植民地・市場(資源・労働力)の争奪戦に乗り出した近代国家の『世界戦争・思想統制の歴史』は悲惨な反省すべき過去として認識されている。

国家間の外交関係が思わしくなかったり主権・領土・歴史解釈を巡る争いが起こっていたりしても、『その国に帰属している人間』を一まとめにして傷つけたり侮辱したり脅したりして良いわけではない。

現代の先進国であれば『政権・政党政治家の政策』はともかく、過半の一般人は『それほど極端な政治思想・排他的な民族主義を持たない人たち(協調路線・生活優先・平和主義)』なので、『お前は○○人だから俺たちのことを嫌って敵視しているんだろう、俺たちの国から尊厳や主権を奪おうとしているんだろう』と言われて攻撃・罵倒されても、自分の生き方・考え方・思想とは直接関係しないことなので対応のしようがない(国家に影響力も持たず特別その国の人を嫌ってもいない自分を脅かされてもただ迷惑だ)という問題もある。

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