「思想哲学」カテゴリーアーカイブ

保守派(右派)の言論活動の台頭と『失われた20年』を通した日本国民の意識変容:仮想敵と見られ始めた中国・韓国

ウェブでは在日の多い地域での在日韓国人(在日朝鮮人)に対するヘイトスピーチ(憎悪言論)や排外デモが話題になったり、『朝鮮人(韓国人)・中国人』に対する敵対感情をむき出しにする発言を多く見かける。いわゆる嫌韓・嫌中の思想を広めるきっかけとなった出版物による起点は、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言(国家を軽視する個人主義のリベラルを欺瞞偽善として公共精神・国家主義の称揚を説く一連の本)』や西尾幹二らの『国民の歴史(新しい教科書をつくる会関連の歴史解説書)』、愛国系の雑誌SAPIO(サピオ)、諸君!など民族主義を復興させようとする書籍だったが、これらはウェブの普及以前のものでその影響力は限定的だった。

その後、北朝鮮による拉致事件や国家犯罪、核開発(ミサイル発射実験)が明るみになったり、韓国・中国との歴史認識の対立や靖国神社参拝問題、感情的な反日デモが報じられたり、中韓朝の歴史教育が『日本(日本人)への憎悪・怨恨』を強める内容だったりしたことで、中国・韓国・北朝鮮を『特定アジア(特ア)』と呼んで『不倶戴天の関係改善できない敵』と見なすような民族主義の右翼勢力が台頭し始めた。

ウェブ社会とアナログ社会の端境期には、右翼的勢力の中心は言論人や文化人、歴史学者などであり、彼らは彼らなりの知的誠実さ・学術的根拠を持って『国粋主義・民族主義・国家の自立(9条改正)などの強化』を訴えており、それほど排外主義や個別の外国人(一般人)への怒りを前面に出したヘイト言論を展開することはなかった。

どちらかというと『右派が自虐史観と呼ぶ歴史観の転換(日本の侵略戦争・戦争犯罪を否定して大日本帝国と現代日本との歴史的連続性を肯定的に意味づけること)』に重点が置かれており、そういった自虐史観を乗り越えないと『日本人としての誇り・国民国家を構成する国民の自己アイデンティティ』を再建することはできないといったような主張であった。

1990年代の出版文化・論壇(学会)と結びついていた右翼勢力は、中国・韓国・北朝鮮などの特定の国家を批判することもしていたが、それと同時に『リベラリズムの国際性・無国籍性(自国贔屓でない中立性)』を否定して『民族主義の愛国心・国民意識(自国肯定の帰属感)』を重視することで、消費文明の現代日本で失われていると嘆く『日本精神・公共意識(共同体的な一体感と国家の一員としての義務感)』を取り戻させることに主眼があったようにも思う。

続きを読む 保守派(右派)の言論活動の台頭と『失われた20年』を通した日本国民の意識変容:仮想敵と見られ始めた中国・韓国

鳩山元首相の『尖閣諸島』に関する発言と中国の尖閣諸島への領海侵犯3:人・国はなぜ争いをやめないのか?

トマス・ホッブズは『自然状態』を個人が自らの生存を賭けて他の個人を死滅させようとする『万人闘争の状態』であると仮定したが、『国家の領土・境界・主権』を譲ることなど有り得ない絶対的な価値として信奉する人たち(いくら人が死んでも死守すべき価値とする人たち)は、外交関係というものを基本的にどの国家が生存してどの国家が滅亡するのかを賭けて闘争する関係(敵と味方に分かれて奪い合う関係)という風に捉えている。

この記事は、『前回の記事』の続きになっています。

『戦争は外交の手段に過ぎない』というような個人の生命を軽視する主張も、『自然状態における個人間の殺し合い』を社会契約で調停しても、『国際社会における国家間の奪い合い』は永遠に続く闘争として存在し続けるという世界認識に立脚したものであり、多くの人は『殺し合い・奪い合う関係』に対抗する措置をリアリズムと呼んだりもするのである。

人間と国家の本性について『殺し合い・奪い合う関係』が正しくそれは変わらないと考える人は、国民国家の対立的なフレームワークを捨てることはないため、『国家の領土・境界・主権』は永遠に継続する価値のように思うことになる。

だが、人間の本性が本当に『生存と死滅、資源の奪い合いを賭けた闘争』にあるのかというと、大半の人は自分自身を振り返った場合には疑問だろうし、よほど追い込まれた飢餓や貧窮にない限りは、人間には『困っている相手を出来る範囲で助けて上げたい・懇願している相手に危害など加えたくない・恨みや怒りを覚えずにみんなが幸せに暮らせる状態が望ましい』という善良な本性が備わっていることもまた確かなのである。

歴史学者のカール・シュミットは、人間の本性は他者を死滅させようとする闘争にあるわけではなく、『資源の希少性(資源の不足)・生活の持続困難性』などの外的条件がある時に限って、人間は他者から資源や財産を奪い取ろうとする闘争の本能に囚われてしまうと考えた。現代であれば、この闘争の本性を生み出す外的条件に『自尊心の傷つき』を加えても良いだろうが、鳩山元首相のような生活の苦労や生存の危機を経験的に知らない大金持ちが、人間の本性をより『闘争から離れたもの・共生と利他を実現しようとするもの』として解釈するのは半ば必然的なことでもあると言えるだろう。

続きを読む 鳩山元首相の『尖閣諸島』に関する発言と中国の尖閣諸島への領海侵犯3:人・国はなぜ争いをやめないのか?

鳩山元首相の『尖閣諸島』に関する発言と中国の尖閣諸島への領海侵犯2:なぜ国境は存在するのか?

思想問題としては、『なぜ目に見えない国境は存在するのか、国境の線引きの根拠はどこにあるのか、どうして国家は実利(生産性・居住性)の薄い国境でも譲らないばかりか時に殺し合いまでするのか』は古くて新しい問題でもある。

この記事は、『前回の記事』の続きになっています。

近代以前の国境(領土・領海)は、基本的に人間が居住したり生産活動や統治行為(徴税)をしている場所をベースにした広がりに過ぎず、生産的・居住的な縄張りと分かりやすい地形上の区切りをやや拡張した曖昧さを残すものだった。近代国家として産声を上げた日本が、竹島・尖閣諸島を誰も支配してない『無人の無主地』と認定して占取権を宣言できたのも、周囲の前近代国家の国境の概念が確立しておらず、そういった生産性・居住性の低い無人島・海域への権力の関心が相当に弱かったからでもあった。

いうまでもないが物理的な地球上の土地や海には分かりやすい線などは引かれていないため、国境という人工的な領域の線引きは『(国際社会に承認された線引きがなされた)世界地図』を目安にしながら、『相対性・恣意性』を必ず伴うことになる。その相対性・恣意性が強まる領域というのが『他国との境界線・無人かそれに近い辺境』であり、中国が強硬に領有権(核心的利益)を主張している『尖閣諸島』というのはその辺境(境界線)なのである。

無知のヴェールによる正義論で知られる政治哲学者ジョン・ロールズは、『諸人民の法』の中で、近代国家の国境は確かに恣意的なものでありその根拠には疑念のある線引きも多いが、そうであっても『一定の囲い込んだ領域内部における人々の生活・生産活動と環境保全』に責任を持った統治を行うという政治的意思の表明としての『現状の国境のあり方』を、完全に無効なもの(フリーな出入を許しても良いもの)と見なすことはできないという『功利主義の持論』を述べている。

続きを読む 鳩山元首相の『尖閣諸島』に関する発言と中国の尖閣諸島への領海侵犯2:なぜ国境は存在するのか?

鳩山元首相の『尖閣諸島』に関する発言と中国の尖閣諸島への領海侵犯1:国境と領土問題の本質を考える

鳩山由紀夫元首相が、『中国の立場=中国側が解釈する戦後の領土返還範囲(カイロ宣言が含む範囲)』を忖度した発言をして、与党や世論、ウェブで大バッシングを浴びている。鳩山さんの政治思想は『空想的な世界政府(アジア政府)を前提とする平和主義=包括的な人権保護のディシプリンに従う諸国家・諸民族』に基づいているので『現実にある国民国家の枠組み』の斜め上を突っ走っていき、そもそもまともな議論としての現実の土台を欠いている。

政治評論家や社会批評家、文学者などの職業であれば、鳩山元首相のような『理想状態の政治・相手の立場に立った持論』というのも面白い人道的なアイデアであるし、『国民国家の領土』よりも『ユニバーサリズムの人権』を上位に置くという思想は確かに、(それにすべての国民が同意するというありえない前提を置けば)領土紛争や民族紛争を殲滅するような思想の原理論的な射程は持っている。

しかし、残念ながら現実に生きている人々の多くは『理念的な地球人・世界人』ではなく、『どこかの国・民族に帰属する国民(部族)』として生きているのであって、少なくとも21世紀の前半のうちには『内と外を切断して内部で利益配分しようとする国民アイデンティティ(共同体的意識の範疇)』を無きものにすることは不可能である。

確かに、国民国家と呼ぶべき政治単位は『自然的・物理的・必然的なもの』ではなく『人工的・教育的・思想的なもの』に過ぎないとも言えるのだが、『統治権力・言語・歴史・土地・外見の共通性などでグルーピングされた集団』が自己集団(自国)と他者集団(外国)を区別して、自己集団の身内を優遇して他者集団の知らない相手を排除しようとする動物的な本性そのものはおそらく人類には克服することができない。人類全体の敵となる先進文明・兵器を持つ宇宙人(人類と別種の知的・戦闘的な生命体)の軍隊でも襲来しない限りは。

続きを読む 鳩山元首相の『尖閣諸島』に関する発言と中国の尖閣諸島への領海侵犯1:国境と領土問題の本質を考える

トルコの世俗派・リベラル派の反政府デモとエルドアン首相のイスラーム主義政策の反動

トルコは国父ケマル・アタテュルクの政教分離の世俗主義とイスラームの生活規範の影響を制約した旧憲法(1982年制定)によって、イスラーム圏では珍しく自由主義・人権思想を尊重する西欧的な近代国家に近い法体系を持っている。世俗主義と自由経済を軍部が支持してきた歴史があるが、かつては圧倒的に民衆の支持を集めていた『世俗派(西欧化の支持派)』が、近年、エルドアン政権の経済政策の好調などもあり保守的なイスラーム右派の政党勢力に押され始めている。

イスラームの教義や伝統を、政治・国民生活に反映させようとする大統領・首相・与党が一定の支持を集めており、個人の自由や人権を尊重する世俗主義(イスラームの規範を法律として権力が強制しない国の指針)が後退して『イスラーム化につながる政治改革』がより進められるのではないかという懸念が欧米にも広がっている。

トルコの反政府デモ激化の直接の引き金は、タクシム広場周辺の大規模な再開発に対する反対運動(公園保護運動)であり、タクシム広場の『アタチュルク文化センター』を取り壊してオペラハウスにする再開発計画が『世俗派の象徴的・思想的な建築物の破壊』という風に受け取られてしまったのである。

しかし、世俗派(リベラル派)と対立するエルドアン首相が、『夜間の酒類販売禁止法』を成立させたり姦通罪の復活を図ったりするなど、イスラーム色を強めてきていることも反政府デモと関係している。『宗教から生活に干渉されたくない』などのプラカードも立てられていて、エルドアン政権のイスラーム主義政策が、飲酒のような国民の私生活・価値観まで法律で規制しはじめていることに、自由主義にコミットする若者層を中心として反発・不安がわき起こっているようだ。

続きを読む トルコの世俗派・リベラル派の反政府デモとエルドアン首相のイスラーム主義政策の反動

自我の強さと自他の差異が生み出す“優越感・劣等感・自己顕示”をどう考えるか?:『超訳 ブッダの言葉』からの思索

仏陀(釈迦)が起こした仏教は、煩悩・欲望の源泉である『自我』を滅却しようとする特異な宗教であり、自我の現れとしての『自己顕示・慢心・自慢』を戒めている。

砕けたポップな言葉で経典の言葉を今風に翻訳した『超訳 ブッダの言葉』を電子ブックで買ったので、その言葉を引きながらブッダの思想や仏教の世界観を考えてみます。

ちょっと言葉が砕けすぎているというか、原文ままの翻訳ではない意訳なので、仏教の学問的な勉強(哲学的・権威的な固い文言を読みたい目的)には向いてないですが、気楽に人生哲学のようにして読み流す一般人向けの本としては良いと思います。『超訳 ニーチェの言葉』の姉妹本ですが、こちらも岩波文庫のように哲学的な重厚感、解釈の奥行きを感じさせる文章(読む人を選ぶ文章)ではなく、現代風のざっくばらんな話し言葉を意識して書かれた文章ですね。

諸法無我とは『自分』と『他人』との境界線が消えることであり、自我の実在性(確固とした他と区別される自分の意識)がいずれは死滅する虚妄・幻影だということを達観することなのだが、自分の価値を顕示しようとする試みは自他の心を惑わせ、いずれは挫折する(生命が燃え尽きる)宿命の下にある。

029 『誰々の』を忘れるハピネス

『この考え(アイディア)は僕のオリジナルさ』
『これはあの人の発案だ。負けたなぁ』
『これはあいつの意見だ。けなしてやろう』
これら『誰々の』という狭い見方をすると、君の心は、我他彼此(がたぴし)と苦しくなる。

『自分の』『他人の』。
このふたつを君が忘れ去ったなら、仮に何も持っていなくても、幸せな心でいられるだろう。

経集951

続きを読む 自我の強さと自他の差異が生み出す“優越感・劣等感・自己顕示”をどう考えるか?:『超訳 ブッダの言葉』からの思索