ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム論』から“人間の性・死(暴力)・労働の本質”を読み解く:3

近代のロマンティックラブ・イデオロギーほどの熱烈で狂気的な恋愛は、安定的な結婚・生活の次元にソフトランディングしてずっと良好な関係が続かない限りは、別離や孤独に耐えられないメンタリティのために、『殺人(心中)・自殺・ストーカー・身の持ち崩し(無職化・ホームレス化)』などのラディカルな悲劇・自滅(他害)に結末することになる。

この記事は、『前回のバタイユ関連の記事』の続きになっています。

世界大戦後の後期近代の物語の主軸は『恋愛・結婚・家族』であり、人によっては好きな異性と結ばれて熱烈な恋愛をして安定した結婚をして家族を築いていくというのが『人生における最大の価値(それがなければ生きている価値が殆どなくなってしまうもの)』となり、『パートナーのいない人生(パートナーや家族から切り捨てられて一人で生きていく現実)』に本当に耐えられずに正気を失ったり犯罪行為にまで逸脱していく人(犯罪をしなくても自殺・無気力化・ホームレス化も含め)もある程度は出てくる。

生涯にわたって安定的に帰属できる伝統的共同体を喪失した現代人にとって、『孤独・愛情不足』は大半の人にとってかなりの心理的ダメージとなるのは確かであり、『男女関係・家族関係のトラブル』をそんなことくらいで犯罪や自滅的行為に走るのは心が弱いからだと安直に言い捨てることはできず、『異性・家族・仕事・金銭・地位・意欲を持てる活動(学び)』などの俗世的な価値や承認の要素のすべてを失ったと感じる時には、人間の精神は意外なほどの脆さを持って壊れることもあるからである。

バタイユは恋愛は肉体の結合に加えて精神の結合をも目論む『不可能性の追求(失敗に終わる企て)』だとして、恋愛は必然的に苦悩の原因にもなるとしたが、『完全な孤独を回避したい人間の本性』が、苦悩につながるとしても恋愛的な『自己を特別に承認してくれる他者』を求めずにはいられなくするのだと語った。

近代における恋愛の物語性は、『伝統共同体から切り離された孤独な個人の慰撫』であると同時に『世界の仕組みの複雑さの縮減装置』であり、恋愛・結婚は『個人の視野を狭くして目的性を特化する心理(相手・家族のためだけに頑張ることを自己の存在意義のように感じてそれ以外の問題・考え事への思考リソースを減らす)』を生み出す効果を持っている。

『なぜ人を殺してはいけないのか』や『なぜ性行為には一定の制約があるのか(社会的なわいせつ基準が設定されて完全なフリーにはならないのか)』という疑問は、少なくともバタイユの描いた『禁止と侵犯』の思想的世界観にとっては愚問であり、人間は集団社会を形成しはじめた時から『死(殺害の暴力)と性(無秩序な乱交)』を禁じられた存在であり、そうでなければ集団間の生存競争に打ち勝つだけの最低限度の労働生産性(労働時間に集中する意識・欲望の節制)を持てなかったのである。

『暴力(人為で死をもたらすもの)の禁止』がなくなれば既存の社会と生産の仕組みが壊れるのは自明だが、『性の禁止(恋愛・婚姻・倫理と結びついた性愛の規範や相手の限定性)』がなくなれば人間は逆に性行為を喚起するエロティシズムの想像領域の広さを失い、性行為をしたいと思う欲望そのものが次第に無くなっていくだろう。

バタイユの『冷静な理性が支配している領域』と『狂的な本能(性・暴力の衝動)に押し流される領域』を区切った思想は、人間社会の秩序形成原理を取り扱ったものだが、人間社会が秩序を維持しようとする禁止や規則を定める中で『無数の差別・抑圧・戦争(虐殺)』が起こってきたという歴史も自覚しておきたいところである。『性(快楽と生殖)・暴力(死と破壊)・労働(生産と秩序)・宗教(聖なるものの創出)』についてはまた時間をかけて考えてみたいが、人類にとっての性と暴力の特殊性は『無(非存在)から有(存在)を生み出す生殖』と『有(存在)から無(非存在)を生み出す死』に由来している。