成人年齢が18歳に引き下げ、来年に民法改正へ(施工は2020年を目処に)

20歳から18歳への成人年齢引き下げは選挙権から段階的に進められるが、高校卒業と同時に成人になる線引きは分かりやすく、法的に成人同等の処遇にするなら飲酒・喫煙も認めるのが筋だろう。

18歳成人、来年に民法改正も=「通常国会提出も選択肢」―金田法相 (時事通信社 – 08月15日)

18歳でも高校在学の間は飲酒・喫煙を禁止する等の特例措置は要るだろうが、18歳で解禁しても『飲酒・喫煙を格好良いとする文化・価値観』自体が若者の間で既に下火になっているので、無理をしてまで『飲める自分・喫煙する自分』のセルフイメージを形成したいという人の比率が大きく増えるとも思えない。

現状、法律で20歳になるまで飲酒・喫煙・競馬(公営ギャンブル)などが禁止されていても、それが建前の違法性しか形成していない。実質的に『大学入学の時点』で飲酒・喫煙・賭博をしたい人にとって解禁になっている。新歓コンパで飲み会が催される法律との矛盾も放置されてきたが、18歳で成人はその矛盾解消にはなる。

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龍樹(ナーガールジュナ)の“独立した存在”を否定する『中観・空』の思想:この世に確かなものがなく、『記号(言葉)』が虚構であるとする世界観は救いか虚無か

原始仏教の流れを汲む上座部仏教(小乗仏教)には『学問・修行・瞑想に専心する出家者のエリート主義』があり、サンガ(僧団)の共同生活の前提はあれど、『個人の自立・研鑽・悟り』に重きが置かれていた。

易行や信仰(帰依)によって、誰でも簡単に救済され得る、死ねばみんな成仏できる、念仏称名だけで十分な功徳になるとかいった『平等主義・大衆救済(一切皆苦の緩和)』の要素は、大乗仏教・浄土門・阿弥陀信仰の隆盛と拡大によって急速に広まったと考えられる。

大乗仏教の原点にいる人物としてインドの龍樹(ナーガールジュナ,2世紀)がいる。龍樹は頭脳明晰な学問の天才としての前半生で慢心して、国王の後宮に秘術で侵入して王の美女を蹂躙する快楽主義に溺れ、その罪が発覚して学友3人が処刑され唯一自分だけが生き延びた(生き延びて愛欲が苦悩の原因とようやく知った)という異色の経歴を持つ学僧である。

龍樹は仏教思想では、この世界に絶対的な実在は存在せずすべては相互依存的なものに過ぎないとする『中論(中観派)』『空』を提唱したことで知られるが、原始仏教の単独でも実在するもの(原理的な存在・独立的な真理)があるとするアビダルマの仏教体系を否定する独自の思想のほとんどは『般若経』に由来しているようだ。

『空』とは何かを一言でいえば、どんな事物でもそれ単独で独立して存在することはできないとする『無自性(無自性空)』であり、すべてのものは釈迦が『縁起』と呼んだ相互の因果関係によってお互いに作用して依存しながら現れでる『仮定の現象・暫時の幻影』に過ぎないとする。

空は仏教の四法印の『諸行無常』を規定する原理的概念としても理解することができるだろう。

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ジャイナ教のマハーヴィーラと物質化された『業(カルマ)』:世界初の無私有者を目指した全裸の変人・修行者

釈迦を始祖とする『原始仏教』の思想に影響を与えたものとしては、バラモン教とその原点にあるウパニシャッド哲学が有名だが、同時代人とされるマハーヴィーラ(ニガンタ・ナータプッタ)の『ジャイナ教』の生命尊重と難行苦行の世界観も釈迦に少なからぬ影響を与えたとされる。

ジャイナ教の概念の独自性として『業(カルマ)』の物質化(素粒子化)があり、業(カルマ)というと一般的には『行為の目に見えない善悪の積み重ねとしての現世での宿命・過去の行為がはねかえってくる因果応報の原則』として解釈されるのだが、ジャイナ教は業(カルマ)を霊魂に付着する物理的な微細物質として定義した。

善なる行為や苦行の実践によって、素粒子のような微細物質である業(カルマ)を軽減することができるというジャイナ教は、仏教のような目に見えない過去世の行為(カルマ)の積み重ねによって、『現世の宿命』が決定されてしまうという世界観よりも、本人の努力や意志がある程度まで通じ得るという点において倫理的ではある。

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死刑制度の廃止論・存置論の『人間観・刑罰の意義』について

歴史的に先進国とされてきたEU加盟国はすべて死刑を廃止しているが、死刑廃止論が沸き起こってくる必要条件は『経済成長・教育水準向上・人権思想・平和な環境・殺人の減少(殺人禁忌の規範順守の拡大)』である。

■日弁連、「死刑廃止」宣言へ 冤罪事件や世界的潮流受け

死刑廃止論は啓蒙思想・教育水準を背景として『理性的な言語が通用する人間(適切な環境で教えて話し合えば分かる人間)』が圧倒的多数派となった時に、野蛮(本能)に対する文明(理性)の優位性の証明として強まってくる。

反対に、死刑存置論では殺人者は『文明・理性・教育の啓蒙の及ばない野蛮人(理性の言葉が通じない教育するだけ無駄なディスコミュニケーションの反社会的主体)』とみなされる。死刑の判決を執行することで、被害者・世の中に対する応報刑の償いをさせて見せしめにし、決定的な再犯防止(息の根を止めれば二度と犯罪は起こしようがない)によって社会防衛を図るべきだとされる。

死刑には統計上の犯罪抑止効果はないとされるが、それは過去においては『貧苦による生きるためのやむを得ない強奪・殺人』が多く、現代の先進国においては『死刑があってもなくても殺人を実行する人の絶対数』が元々相当に小さいからである(殺人・暴力の禁忌が幼い頃からしつけや教育、人間関係を通して深く刷り込まれているからである)。

現代では『殺人・強奪以外の適応的な問題解決法の選択肢』が多いので、あえて他者の人権を決定的に侵害して社会的・法律的に厳しく指弾され(社会共同体から排除され)、生理的な気持ち悪さも伴う『殺人』を選ぼうという人は少ない。

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