龍樹(ナーガールジュナ)の“独立した存在”を否定する『中観・空』の思想:この世に確かなものがなく、『記号(言葉)』が虚構であるとする世界観は救いか虚無か

原始仏教の流れを汲む上座部仏教(小乗仏教)には『学問・修行・瞑想に専心する出家者のエリート主義』があり、サンガ(僧団)の共同生活の前提はあれど、『個人の自立・研鑽・悟り』に重きが置かれていた。

易行や信仰(帰依)によって、誰でも簡単に救済され得る、死ねばみんな成仏できる、念仏称名だけで十分な功徳になるとかいった『平等主義・大衆救済(一切皆苦の緩和)』の要素は、大乗仏教・浄土門・阿弥陀信仰の隆盛と拡大によって急速に広まったと考えられる。

大乗仏教の原点にいる人物としてインドの龍樹(ナーガールジュナ,2世紀)がいる。龍樹は頭脳明晰な学問の天才としての前半生で慢心して、国王の後宮に秘術で侵入して王の美女を蹂躙する快楽主義に溺れ、その罪が発覚して学友3人が処刑され唯一自分だけが生き延びた(生き延びて愛欲が苦悩の原因とようやく知った)という異色の経歴を持つ学僧である。

龍樹は仏教思想では、この世界に絶対的な実在は存在せずすべては相互依存的なものに過ぎないとする『中論(中観派)』『空』を提唱したことで知られるが、原始仏教の単独でも実在するもの(原理的な存在・独立的な真理)があるとするアビダルマの仏教体系を否定する独自の思想のほとんどは『般若経』に由来しているようだ。

『空』とは何かを一言でいえば、どんな事物でもそれ単独で独立して存在することはできないとする『無自性(無自性空)』であり、すべてのものは釈迦が『縁起』と呼んだ相互の因果関係によってお互いに作用して依存しながら現れでる『仮定の現象・暫時の幻影』に過ぎないとする。

空は仏教の四法印の『諸行無常』を規定する原理的概念としても理解することができるだろう。

『空』である現象を人間は直接的に知覚したり、概念・言語を使用して指示あるいは伝達することによって『独立した実在・確固とした存在』であるかのように錯覚するのだが、龍樹は『中論』によってそういった独立的な実在の虚構を指摘すると同時に、人間が用いる言語・概念そのものも独立した実在を保証するわけではない『(人間の都合と文脈に依存した)仮設』に過ぎないとした。

現象・事物はすべて、相互依存的かつ相対的な『知覚と言葉が見せる暫時の幻影』に過ぎず、『二項対立的な仮設の概念(善悪・陰陽・優劣・正邪・有無・主従など)』のいずれか一方だけを実在する正しいものだと信じることは大きな過ちにつながるという龍樹の事象の捉え方はあまりにもシニカルで、多くの人が素朴に信じている世俗の価値(価値であると同時に苦悩)を壊すものでもあった。

だが、中観や空は『すべては移ろい過ぎ去ってゆく・この世に変わらないものは一つもない・相互依存の仮りそめの事象に執着しすぎて苦しむな』とする仏教の諸行無常の摂理を直接に説明するものになっていて、客観的に見ても論駁することが困難なものである。

龍樹の中観(中道)の面白いところは、原始仏教の『有』と『無』のナンセンスな二元論に終止符を打つべく、有・無の中道である『空(空観)』を呈示したことである。あらゆる現象と事物は単独として実在する『自性』を持っておらず、相互依存的(観察するもの・されるもの)な仮設の『無自性空』として理解することが妥当だとした点である。中観・空観とはすなわち、物事を知性や言語によって分別しないとする究極の『無分別知』への道である。

無自性空がなぜ仏教史において革新的な思想だったのかといえば、それは煩悩を断ち切り執着を捨て去ることが解脱(悟り)に近づく道だとする方法論において、『煩悩を抱くべき価値・執着すべき実在(更には価値や実在を求める自我)』そのものを根底から仮定的かつ暫時的な相即のもの(他との相互作用)に過ぎないと切ったからである。

無自性空とは相対主義に近いが、仏教経典のコンセプトでいえば『不生不滅・不常不断・不増不減・不一不異・不来不去』などに示される縁起の捉えどころのなさでもあり、この世界にある事物・現象の根源的な実態のなさ(観察者である自我もいずれ去りゆく)でもあるのだろう。

龍樹の二諦説では、言語・概念を用いずにありのままの世界を把握する『第一義諦・勝義諦』と言語・概念を用いて世俗の真理を把握する『世俗諦』に分けられるが、龍樹は究極の中観的な真理とする第一義諦を『無分別知』としている。

言語や概念の『記号』を通して語られる世俗・人間知性の真理を龍樹は軽視して、それらの世俗諦を『仮定・虚構・暫時』と見なした。

龍樹の『中論』ではこの言語の虚構性・多元性・文脈依存性のことを『プラパンチャ(漢訳の戯論・けろん)』という言葉で表現しているようだが……しかしこのプラパンチャ(戯論)という概念も人間の言葉に依拠しているのだから、所詮は虚構で暫時の仮りそめに過ぎないのではないかという疑問も過ぎるが、『言語(話すパロール・書くエクリチュール)の相対性』を巡る思想の系譜はその後1800年以上、21世紀になるまで継続中ではある。

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