エマニュエル・レヴィナスの生成の哲学とエゴイズム・逃走の欲求:2

自由で豊かな人間は自らの有限の運命・能力を否定しようとして『逃走の欲求』を抱き、倦怠・怠惰に陥りやすくなるが、それでも人間存在(動物としての人間)を根底的に束縛している自然法則や生存本能や摂理・運命といっても良い『契約』を破棄することはできない。

確かに、自殺を選んでしまう人(身体的精神的な苦痛に打ち負かされる人)もいるが、自殺は『自意識を持った人間に科せられた契約』への回答にはならず、自意識や認識世界そのものも消滅させてしまう『ルール自体の違反』であり、私が私であるという自意識の元で『生の持つ意味・価値』の葛藤を解消することとは何の関係もない。

この世界に生み出されて投企された人間は、いくら自由で豊かになろうとも、『否定したはずの運命』に本能・自然・有限性・倦怠(実存的疲労)によって再び捕捉される運命の下にある。

無限性の神を科学と理性で否定したからといって、人間が傲慢にも無限性を帯びるわけではないというレヴィナスの洞察があるわけだが、レヴィナスは人間の人生は倦怠や疲労を感じていても、自分には生きるのが億劫でつらいといっていても、それでも幸福であることに変わりがないと断言する。

享受とは仏教的な『知足』と言い換えても良いが、自分が太陽光を始原とするエネルギーを享受すること、自分と自分以外の他者の労働・行為などを享受して生きていること、何もしなくてだらけていても何もしない状態を享受していることそのものが、何ものも享受できなくなる強制的な生の終了よりは幸福だと合理的に考えられるからである。

なぜならばレヴィナスのいう幸福とは、ただ生きていることだけから必然的に推測される『享受』だからであり、死なずに生きているだけでも『人生のエゴイズム』は満たされているからである。このことはレヴィナス自身のナチスドイツによるユダヤ人弾圧の体験と死の恐怖に根ざしたものでもあった。

だが、人間は自分のためだけに生きる人生のエゴイズムに限界と倦怠を感じる運命に襲われ、再び『他者・社会』といった自己束縛的なものに意識・行為を向け始める。自問自答による実存の重圧や生きづらさの無限ループから抜け出すために、再び『他者・社会』との関わりや倫理の中から生きる実感を取り戻したいと考えるからだが、人間が社会生活を営む以上は『他者』との対話は不可避なものであり、対話があれば自分の感情や意思が何らかの影響を受けることも避けられないことに由来する。

レヴィナスはエゴイズムを否定的には語らず、エゴイズムは他者の幸福や自由の否定ではないとして、『享受において、私は絶対的に私のために存在する。私はエゴイストであるが、他者に対してエゴイストであるということではない』と述べている。

更に人間は『他者(誰か)のため・社会のため』という理由や名分があり、『実際に他者・社会に役立つ行為や恩恵』を生み出しているとしても、究極的には自分がやりたいからやっている(やることに意味・必要があると考えるからやっている)というエゴイズムの循環構造の外には出られないのだともいう。

『全体性と無限』においてレヴィナスは、現代人の逃走の欲求を『形而上学的な欲求(メタフィジカルな欲求)』と呼び変えて、以下のように記した。

[「真の生活が欠けている」。しかし、私たちは世界に存在する。形而上学は真の人生の不在のうちで出現して維持される。形而上学は「他所」「別のやり方」「他者」に向かう。]

他者のための行為や他者との関係性への転換は、『他者の顔』との遭遇から始まり、他者の顔からの発話のベクトルに私が応えなければならない立場に立たされた時に、『私の内部での生きる意味の自問自答』を繰り返せないような、他者との倫理的対話(別の場所・やり方)に巻き込まれてしまうのだとする。

レヴィナスの『顔』に象徴される他者論の射程は、社会的差別や政治対立(民族紛争)、難民問題、社会的弱者(貧困問題)、人種差別にまで波及する長さを持ち、何らかの苦痛や欠乏、孤独、貧窮、絶望に襲われている人々の訴えかけや眼差しによって、『他者に応えるべき自分』を再帰的に意識させられることに倫理の起点があるのだとする。

私の意識内部で循環する生きづらさや人生の倦怠・重圧・無意味さは、他者の呼びかけや告発、懇願などに対峙しようとする倫理の起点によって軽減される可能性が生み出され、『他者に対する回答』が人生の意義を補強することになる。

エマニュエル・レヴィナスの生成の哲学と現代の生きづらさの要因の考察:1