安倍政権の憲法9条改正・集団的自衛権に反対する集会:現代日本・国際情勢・人間心理と憲法9条との関係性

国が貧しくて生活が苦しくなれば日常で自尊心を保てない国民が増えれば、国民の教育が過度にナショナルになれば、政府も国民も国家的危機の責任を『外国』に求めて戦争の火種が発火しやすくなる。

「9条壊すな」集団的自衛権閣議決定に反対、全国で集会

個別的自衛権を墨守する憲法9条の限界は『自国が守れないこと』にあるのではなく『豊かな先進国の一国平和主義』にある。戦争ができる普通の国、軍事力の強い国だから安全というのは、アメリカや中国を見る限り虚偽である事は明らかで、『外国・異民族に干渉しようとする国』はいくら軍事が強くても危険に晒される。

世界最強の軍隊を持つアメリカは、強引な世界戦略を展開してきた歴史の影響で『無数の反米勢力』を生み出してきた為、核兵器と世界の軍事予算の5割以上の予算を持っていても、アメリカ国民・兵士に大勢の犠牲者が出てきた。

アメリカの自由主義・民主主義・市場経済・人権の理念は現代の先進国では普遍的なものだが、それを異文化・異民族にまで拡大して無理矢理にでも適用しようとすれば、いくら軍隊で脅したとしても『反米感情(反グローバリズム)の高まり・決死の反米テロ活動』を抑止しきることは不可能である。

中国も遅れてきた帝国主義国家として、軍事力を強化して領土を拡張する姿勢を見せているが、チベット・ウイグル・東南アジアに限らず『反中国勢力の拡大』が続いており、中国軍をいくら強化しても散発的なテロ事件や村落の武装蜂起を防ぎきれない。

アメリカも中国も『軍事力を強化して戦争できる体制だから、国民の生命・財産が守られているか』といえばノーであり、 現代の国家を見渡しても『軍事の強さ・秩序の大切さ・愛国心(滅私奉公)を喧伝する国』ほど国民が貧しくて不幸だったり、不自由で言論・情報が統制されていたりする。

憲法9条の改正そのものが問題というよりも、『日本の経済力の陰り・日本国民の生活水準の低下や自信喪失』によって、軍事力の強化や勢力均衡に『勝負の舞台・自尊心の置き所』を移す9条改正の反動が起こっているのではないかという事が懸念される。憲法9条の平和主義・戦争放棄は、理性的な規範としては普遍的正当性を持つが、理想主義であるため『現実の国民の困窮・自尊心の傷つき』があると、正しくても無力な気持ちになりやすい。

憲法9条は『太平洋戦争の悲惨な犠牲及び国家権力による国民の思想行動の支配を繰り返したくない決意』の元に戦後日本で圧倒的支持を受けたが、戦争を知る世代の多くが鬼籍に入り経済大国日本のアジアにおける優位性が陰る中、『中国・朝鮮半島の挑発や非難』に対して軍事で牽制したい衝動が強まっている。

貧しければ軍・軍人が支持され、財界・役人が嫌悪されるというのは、およそ国・民族を越えて通用する『民情の法則』といって良く、民衆の圧倒的支持を受けた軍の影響力が肥大して文民統制・憲法・選挙にも従わなくなってくる。現代中国にも共産党が軍を制御しきれない側面が見え隠れしている。今のエジプトやタイも然りだが。

憲法9条の平和主義は普遍性を持つが、そこには『戦争反対・人命尊重』だけではなく『理性・規範による現状の維持』という豊かになった先進国の利益も織り込まれている。安倍首相は『中国の力による現状変更』を非難するが戦前日本の満州事変のように、貧しく国民に不満があると現状変更の形を見せないと統治が崩壊する恐れがある。

憲法9条が世界中に広まらない理由を考えるとすれば、『現状が続いてもOKという国』と『現状を何としてでも変えたいという国』との見解の相違があり、暴力や戦争が常識的・個人レベルでは否定されるべき手段だとしても、『外国・他人に無理矢理にでも言うことを聞かせる手段』として現在でも有効だからだろう。

『戦争をしたい人たち』だけ集まって、『戦争をしたくない人たち』に影響を与えずに無人島のような場所で戦争すればいいという一国平和主義の考え方は、それが実現すれば戦争の弊害はなくなるが、戦争は戦いそのものではなく『戦争をしない人の自由やその財物に対する支配・影響力』も目的にしているので不可能だろう。