動物としての義務や社会貢献の義務から考える“子無し税”と“呪縛されし近代人の生殖と労働+必然的少子化の時代”

「子無し税」議論 様々な意見噴出

行為選択の自由意思が働かない自然界には義務も責任も権利もない。何より出産や育児にカネがかからず学校も税金も年金もない、子育てに失敗も成功もない。

シマウマに飛びかかって殺害し捕食したライオン、弱者を集団で痛めつけて群れから排除するチンパンジー、ハーレムの雄を追い出して雌を強姦し子を殺したゴリラ、小鳥に鋭い爪を突き立てて捕食する鷲、これらの動物個体は『他者の権利(生存権・人格権)』を侵害した犯罪者ではない。

動物には概念操作の共有によって守られる権利も義務もなく、遺伝子のプログラムと環境条件と自然界の摂理(暴力的競争・自然選択・性選択・突然変異)に従って導き出される冷厳な現実の積み重ねだけがある。

子孫を残すのは『動物としての義務』という使い古されたクリシェ(定型句)はあるが、正確には動物としての自己遺伝子保存は『意思的・強制的な義務』ではなく『遺伝子情報のプログラム』であり、人間の選択的な生殖活動(相手の選択・婚姻や出産の選択・価値判断の選択)は動物的次元ほどにはプログラム化(自動化)されていない。

ヒト以外の動物は価値判断をしないために、哲学史において『機械主義的な自然観』は未だ説得力を持つし、よくよく考えれば『自己遺伝子の保存の意味』すら動物は何ら意識的に思考しているわけではなく、『個体としての自我意識・損得感情』によって性的・生存的な競争をしているわけでもないのだ。

気づけばただ現実の結果として、ある個体が生存を維持しある個体の遺伝子が複製されていた(性選択に成功した)というだけであり(厳密にはその結果の含む意味・仕組みに気づける個体そのものが人間という種以外にはいないのだ)、深く考えれば『自然界の摂理・動物だけの世界』というのは自動的・機械的なものでかなり恐ろしい感覚を刺激する不可解さ、無意味さに満ちている。

なぜヒトという動物だけが、全てをなげうって必死に個体数を増やそうと思えば増やせるのに増やさないのか、答えは余りにもシンプルだ。『個体としての自我意識・価値判断・損得感情』があるからであり、性と生殖以外の人生の興味関心や情報・娯楽が爆発的に増大して、平均寿命も相当に延長され『死(有限性)のリアリティ+完全な消滅を回避したいという心的な自己複製願望(自分自身が永続するわけではないがその夢想・希望をつないでくれる)』が希釈されたからである。

より簡単に某元大臣の言葉を皮肉って言えば、人間は動物とは違って『遺伝子に行動次元までプログラムされた産む機械(妊娠させる機械)』ではないからである。

精神分析家の岸田秀が人間の性生活を評して『本能が壊れた動物』だと言ったが、、人間にプログラムされている本能は『性行為・スキンシップの本能』までであり、『生殖(出産)・育児の本能』というのは後天的な学習・適応・愛情(小さき者への共感)や周囲からの期待・圧力・援助によって形成されるものである。

少なくとも、妊娠したい人だけがセックスをするわけではなく、妊娠した人が必ず産んで育てるわけではないという意味において、ヒトの妊娠出産・育児は自然発生的(自動的)なものとまでは言えない。出産・育児は、後天的な愛情・学習と社会的な義務・常識とが入り混じって遂行されるものであり、更に言えば『人間固有の自我意識・損得感情』とも切り離すことが難しいものである。

避妊技術の開発・普及以前の時代であれば、『性行為の本能+平均寿命の短さ・大家族制度(子を産ませる対人圧力と育児に協力可能な人数の多さ)・情報や娯楽の少なさ(遺伝子保存・家系維持の優先度の高さ,それ以外にやりたいことの少なさ)』によって、本能や義務的結婚で性行為までして妊娠してしまえば、半ば自然な営みとして出産・育児にまでこぎつけられた。

子供を育てるコストは格段に安く、大半の家は農家・農民で短期間で労働力になっていくのだから(それ以外の身分でも家業を継ぐだけだから)、子供の学業・職業のキャリアや人生の選択の複雑さもなかった。

人類が国家や社会に貢献するためだけに無理やりに子供を産んだ時代はなかったが、ポストモダンの豊かな現代のように『お金の損得・賞罰まで繰り出して何とかして子供を産ませようとする必死の少子化対策』が議論されるような時代も殆ど無かっただろう。

しかも少子化対策が必要という人たちの本音の多くが、『子供の健全な成長・幸福・安心』よりも『自分の年金財源・老後の介護・孤独な境遇回避などの損得の心配』にあるのだからなんとも現金というかリアリストである。人口統計調査による人口動態からすれば、現在の出産可能な女性がかなりの割合で1~2人の子供を産んだとしても焼け石に水で、既に年齢別人口階層の格差が大きく開いた人口モメンタム(人口動態の慣性・加速度)を20~40年以下のスパンで逆転させることは不可能に近い。

だが、現代の親世代の人たちだけが特別に利己的なわけではなく、人類はいつの時代においても『自分や家族にとって利益になりそうな出産の選択』をしてきたし、過去の時代は特に貨幣経済の領域(拝金主義の通用範囲)が狭くて、多くの人たちは貧しくて生きていくことだけに必死だったのである。

江戸期の都市部では現代と同じくらいに出生率は低かったとされるが、農村部ではそもそも個人として生きられるような環境も世間もなかったのであり、人は生まれながらにして『大家族の中で何らかの労働の役割をあてがわれる共同体の構成員』として扱われる。個人としての生き方・趣味嗜好・価値観もへったくれもなく、決められた共同体の構成員としての労働や役割を果たしていくうちに、労働力再生産のための妊娠出産もそのサイクルに自然に組み込まれてしまっているのであり、『必要があるから子供は産まれた』のである。

『子供(人間)=いずれ親世代の役に立ってくれる労働力・財産』という認識で世代再生産が循環していたが、この過去と現在の比較から『昔の人は貧しくても産んでいたのに』というのでは人間の行動原理の本質を見失う。

学校教育・企業就労などのスクリーニング(将来の利益配分と絡んだ格づけ競争)を必要としない農家・漁村に産まれた子供たちは、よほどの英才でない限りは将来の仕事が家業・身分によって概ね決まっており、そういった所与の社会階層による人生・肉体労働の規定性は昭和30~50年代くらいまでは殆ど揺らがなかった。

近代初期までは、子育てで大切なことはほぼ『五体満足で健康な少年や大人に育ってくれること(家族・村落の共同体の一員として肉体労働ができること)』であり、昭和30~40年代でも過半の人は中卒ですぐに就職して会社で仕事を教えられていたのだから、進学塾などもなく子育てにお金がかからないしすぐに労働者となって稼ぎ始めていたのである。

個人の趣味も教養も職業選択も大学進学も娯楽・ファッションも買い物もインターネットもモラトリアムもへったくれもない、とにかくどこかで働いて結婚して支え合うしかない貧しい時代(貧しいけれど学歴・職歴不問で元気とやる気さえあればどこかが雇ってくれてそれなりに現場で学んで年功で出世もできる時代)がつい半世紀前にあったのである。この時代と同じ感覚で、現代の妊娠・出産事情やその動機づけを語っても時代錯誤に過ぎる。

現代は『必要だから子供が産まれてくる時代(生きるためにする労働・結婚・出産育児以外には個人がやりたいことを見つけることが困難な時代)』や『短期間の最低限の育児だけで子供が即戦力・労働力として稼ぎ始められる時代』としての諸条件が尽く失われている時代であり、成熟した文明社会では少子化傾向は半ば必然のものとしての側面が強い。

“子無し税”を導入すべき理由として挙げられているのは、『子供を産んで育てることは少子化対策の社会貢献であると同時にある種の義務であるから』というものだが、子供を産んで育てることが社会貢献(労働力・税金・保険料の再生産)につながるという前提がまず成り立たないのが欧米諸国を先例とする現代(イノベーティブなポストモダン)である。

子供を資本主義経済や社会保障制度の財源(労働・納税の原資)として扱うことが正しいのかという道徳の問題もあるが、それと合わせて現時点で生きて働いている大人たちが『労働・納税の部品的な原資』になることを嫌がってそこから脱落する者(自分だけが損していると思い込む者)の割合も高いのに、その子供世代がスムーズにその部品的な原資(自分個人の趣味・教養・娯楽を捨てた労働的・納税者的な部品)になってくれるはずがないという考え方も有力ではないかと思う。

次世代の子供たちは、私たち以上に高度資本主義・情報経済・インターネット環境に適応していく『頭でっかちな仕組みを理解してから物事にかかる世代』になる可能性も高い、そういった子供たちを従順な労働力や納税者、介護者としてだけ育成していくことがそうそう簡単な課題だとは思えない。

高度な情報・知識によって仕組みを理解すると、どうしてもメタレベルの管理者目線やシステム運営の視点になりやすいが、現実には大半の人は『管理される立場の労働者・システムを構成する要素』以上の働き手にはなれないからであり、先進国のような消費文明的環境(消費者至上主義)では『労働者の雇用条件の悪さ・労働環境での自分の扱われ方の悪さ』がどうしても目立ちやすくなるからである。

『高学歴ワーキングプア』と揶揄されたような一定以上の学歴・知性があるのに貧乏な層(貧乏だが身体資本に頼るガテン系ワークにも意識を転じられない層)は今後も増大するが、これは教育投資の無効化・逆効果化の事例である。

『学歴・職歴・根性(意欲)の競争的なスクリーニング』から脱落した貧困層・無気力層は既に若年失業率が20%を超えるEU諸国(財政破綻のギリシャなら40%超だがどん底から這い上がる意欲・根性も低い)で大きな問題になっている。

子供を産んだ後に『稼げる意欲のある労働者・納税者』として育て上げられるかどうかの不透明感が高まっているわけだが(中途半端な教育投資や自己定義によって職業選択の幅が狭まる弊害も起こり得るわけだが)、『社会全体のコモディティの労働需要(やれば大半の人ができるレベルの仕事)』は不人気な業種・業界を除いては今後も『技術革新・自動化・ロボット化』で減り続けるだろう。

自動車の運転でさえ10~20年後には全自動化が可能になるとされており、運輸業界の運転業務における人員削減にもつながりかねない。長期的な自動化・ロボット化の影響範囲は現在の想像を超えてくると思われるが、技術革新や人間代替の労働力が行き着く所まで行き着いてしまえば(人間に近い仕事ができる介護ロボットやシステム制御の人工知能)、少子化問題そのものが議論されなくなっていくかもしれない。

他人に社会貢献のために子供を産めというレベルまで干渉しようとする人の多くは、『自分・高齢者のために働いてくれる人・お金(税金)を納めてくれる人』を求めているのだから、それと同じ貢献をしてくれる主体が人間(子供)であってもロボットであってもどちらでもいいということになるだろう。

そもそも人間と近い労働が可能なロボット(好き嫌い・疲労やストレスに影響されない働き手)が十分に供給されるような時代になれば、お金そのものの価値や必要も薄れるはずだから、少子化や社会保障の議論の前提そのものがひっくり返る。

そう考えると現代における少子化問題は『自分・未来(システム維持)のために貢献してくれる新たな働き手』を求めている以上の意味合いが乏しく、思い通りに動いてくれない他者(自分よりも楽をしていそうな他者)に不満・不公平が高ぶっているのだが、他者もまた自分と同じ『自我意識・損得勘定』を持つ人間である限りは、その不満・不公平は終わりなく続いてしまう。

子供を産んで育てることが高い確率で社会貢献につながるというのは、『元気とやる気さえあればできる仕事(体一つで何も持たずにやってきても迎え入れる会社)+本人の社会適応の良さや素直な労働意欲+みんなが嫌がるような待遇の悪い仕事でも進んでする若者』といった条件を満たす場合だが、どの条件を取ってみても簡単には満たせないからこそ、現代では出産・育児・子供の数に迷いと葛藤が生じ得る。

『子無し税』という発想そのものが、『思い通りにならない他者と人生(環境)』を否定したいと願う人口減少・拝金主義の現代の象徴であり、『自己と他者の利害の対立』が前提されることによって、お金の負担の大小によって共同体的な仲間意識が既にして解体していることの悲しき傍証なのだろう。

しかし、自分の子として産まれてくる子供もまた『思い通りにはならない他者(自分の持つ常識・義務感が通用するか定かではない他者)』なのであり、『学歴・職歴・意欲(気力)のスクリーニングと階層化』によって自己と他者の共同体的な仲間意識が解体される現代においては、みんなで社会貢献をするという場合にも各人がイメージする社会環境と貢献行為の実質を共通認識(お互いがどんな行為を誰のためにしていてその行為をどう評価するのかという共通認識)として把握することが難しい。

一時の恋愛感情や性衝動の高まりを除いては、人間の生殖(出産育児)と労働が『自然・本能・生存』からかなり隔たってしまい、『自分の幸福・子供の可能性・社会保障の財源・金銭の負担・学歴職歴のキャリア』などに基づく半ば無意識的な利害計算が、動物にとっては自然的本能の一部である生殖に深くまとわりつくようになってしまった人間らしさの悲劇(自我意識・知性・システム・金銭の呪縛)がそこにある。