“機械化・自動化”と機械・動物を使役し続けた人間の歴史

『機械(machine)』とは、権利と自由を持たない無機的な道具であり装置(システム)である。古代ギリシアの時代から、人間の命令に従って自動で動いて仕事(物事)を成し遂げる『機械』は技術的・思想的な憧れの道具・仕組みであった。

しかし、万人が自由かつ平等という人権思想などあるはずもない古代社会は、弱肉強食のロジックで動く戦争の世界でもあり、戦いの敗者を『奴隷(擬制された生命ある機械)』として一方的に使役・売買することで機械発明のニーズが押さえ込まれていた。

人類が労働を自動化・効率化する『本格的な機械』と遭遇するのは、18世紀イギリスの産業革命期であるが、蒸気機関(内燃機関)・紡績機・工場機械・印刷機などは資本主義の利潤追求・児童労働・長時間労働などと結びつくことで、機械が人間を楽にするよりむしろ『異なる質の過剰な肉体労働(機械を操作したり機械に使われるような肉体労働)』を押し付けることになった。

システム化された工場の機械群に頼らないそれ以前のマニュファクチュア(手作業)の職人たちの多くが、機械によって仕事を奪われて失業したが、『機械化・自動化による仕事の減少』は現代においても憂慮されることのある問題である。当時は機械を破壊して仕事を取り戻そうとする『ラッダイト運動(機械破壊運動)』が起こったりもした。

カール・マルクスは『資本論』の中で、工場機械が人間の労働から一つの仕事を人間たちだけで最初から最後まで責任を持って仕上げる『全体労働(仕事の意味)』を奪ってしまうと語っている。工業社会で働く人間は、労働の機械化によって味気ない全体の一部分の仕事だけをノルマ的に担当するだけの『部分労働』に従事せざるを得なくなり、製品の生産効率は上がるが人間の労働の充実感が落ちるというわけである。

いくら職人や労働者がラッダイトな思想・運動を支持しようとも、近代化とは『機械化・自動化・コンピューター化・大量生産化』であるから、機械によって既存の人間(旧式の機械)の仕事をさらに自動化・効率化しようとする大きな流れを止めることは殆ど不可能である。

機械破壊運動はそのまま近代文明の破壊運動だが、コンピューター化やインターネット化(クラウド化)が進んだ現代ではなおさら、ラッダイトのような反動姿勢は大海の波に流されて壊される脆弱な砂城のようなものである。

人の仕事を奪ったり人の生活様式を激変させたりする可能性があるにも関わらず、なぜ機械化はとめどなく推し進められるのか。

近代化の知恵の実をかじった人間は『科学技術の進歩のベクトル』と『生命・権利のない機械(文句をいわない機械)による労働代替のベクトル』を速度の違いはあっても前進し続ける本性を持つからであり、哲学的には人間もまた『機械論的生命観』の範疇で認識されることも多いからだろう。

機械化・自動化の終局にあるものは『生命と権利を持たない究極の道具・装置』であり、『人間の細かな命令を必要としないが人間に決して逆らわずに、人間のための自律的な仕事の完遂ができる機械』であろう。

現代のラッダイト思想集団、動物的な支配原理に基づくISIL(イスラム国)は、文化文明を破壊して占領地の敗者を奴隷化しているが、近代化・機械化を推進してきた欧米文明社会(日本も含む)は人間を奴隷化・使役化するISIL的な価値観を否定して、産業文明社会(資本の論理)の格差・主従の矛盾を抱えつつも、人間ではない機械を進歩させ機械を奴隷化・使役化させる道筋に向かう方向性を倫理面においても示唆する。

人間と機械の差異は『生命の有無』にあり、人間と動物の差異は『知性・意識のレベルの高低』にあるが、歴史的あるいは宗教的に人間は自らを動物よりも機械よりも上位の『特権的な存在・種』として自己定義し続けてきた。

人間同士の戦争・犯罪の殺し合いや支配・奴隷化の歴史も長いものがあるが、基本的には最低限の倫理観として『味方の属性を持つ人間の殺害・支配・奴隷化』は禁忌とされ悪とされてきた。

知性・意識・抵抗力のレベルにおいて人間よりも劣る動物は、人間の食用・衣料用の道具として活用されてきたが、近代後期になると『人間に近しい知性・外観・反応を持つ動物』に対しては一定の範囲でアニマルライツ(動物の権利)を認めるべきではないかという高度な共感的倫理の実効性が模索されるようになり、日本ではイルカ・鯨漁を巡る軋轢も起こしている。

かつて動物には自由も権利も全く認められていなかったから、乱獲・狩猟・資源利用の対象として、人間の思いのままに実力勝負で殺害されて利用されていたが、そういった権利観がアニマルライツを承認させるほどの文明や思想の変化によって変わろうとしている。

人間と動物の間の境界線が微妙にずれた。ならば、人間と機械の間の境界線が今後もずっとずれずに、機械には生命がないのだからどんな風に利用しても破壊しても自由だという論法が通用し続けるだろうか。

人間の細かな命令を必要としないが人間に決して逆らわずに、人間のための自律的な仕事の完遂ができる究極の機械は、『高度な人工知能・運動機能を備えたロボット(ヒューマノイド)+高度な環境管理能力・社会調整機能を備えたシステム』である可能性が高いし、科学技術水準がそこに追いつけば必ずそういったものを人類は創造しようとするだろう。

ここに動物の権利基準である『人間との知能水準の近さ』を持ち込めば、人間以上の演算処理能力に加えて自律的な問題解決力・言語的応答力を持つようになったロボット(機械)を、『生命がないモノ』としていつでも壊したり使役して良いものとして扱えるかも微妙になるかもしれない。

その段階に至った人間と機械の権利・主従の関係性は、実力・知性において人間のほうが上回っているから人間に従うのが当然だとか、有機物で構成された生命でなければ権利・自由は認められないとかいうものではなくなり、『ロボット(機械)を創造したのが人間だからという歴史性・神話性の親子擬制(誕生の起源への忠誠)』以上のものではなくなっているだろう。

ポストモダン思想のジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、人間を『権利ある個体』ではなく『欲望する機械』として仮定し、世界における実在とは欲望と欲望の対象との関係性であるというようなことを語ったが、これは『人間と機械(道具)とのフラットな関係性』に置き換えることができるものでもある。

『自然は人間を生産すると共に、人間によっても自然は生産される』というのは、文明社会を構築する人間、人工的環境領域を自らの自然として拡張していく人間という種の特殊性を示唆しているが、再生医療による人工臓器・延命治療にしても、ビッグデータによる行動予測ターゲティングのシミュレーションにしても、もはや人間は自らのテクノロジーとその生産物によって『道具・機械・人間が密接不可分なネットワークとしてつながる世界』に生き始めようとしているのかもしれない。

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