一般国民はなぜ戦争を望まないのに戦争は起こるのか?:日本国憲法の平和主義と人類の動物性

戦争を望む人などいないのになぜ戦争になるのか戦争に賛成しない人も巻き込まれるのか、その仕組みを考え権力の有効範囲(国の戦争権)を抑止した日本国憲法は普遍的だが自然的ではない弱さもある。

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論理的・道徳的には「戦争に賛成する人たちだけが戦争をする・戦争に反対する人たちは戦争に巻き込まれない」が理想だが、人間も動物だから相当入念な理性主義・平和主義の教育を受けないと「強い者(雇う者)の命令に弱い者が従う+議決された法律で徴兵徴発される」という国家権力の戦争権に理屈・善悪は押し切られる。

9条は「国民の感情・外国への敵意・領有権対立・権力者の誘導・経済的苦境・教育」などによって戦争権を繰り返し発動してきた人類の共同体の暴力性をメタコードで拘束しようとするが、集団の強制を弱める「個人の尊厳原理」が必要条件で、人権が弱く貧困・部族慣習も多い集団権力志向の中国・中東諸国では採用されづらい。

権力構造における弱肉強食、文化・宗教の規範性、共同体の自衛権・拡張性、経済格差と貧困(個人の脆さ・集団的権威への同一化)の存在などに裏打ちされた「力の論理・集団の強制・友敵理論」はやはり自然的なもので、戦争放棄・平和主義などは高度な教育・豊かな経済・メタな目線・個人などを要する理屈的なものである。

近代は成熟するにつれて「ペン(言葉・法)は剣(暴力)よりも強し」となる傾向はある。当該共同体の構成員の教育・理性・生活の水準が向上して「個人の生命・自由の価値」が高まり庶民といえども戦争の道具として利用することが難しくなる。「外国を恫喝・攻撃する力・支配の論理」に納得しない国民が増えるからでもある。

憲法9条の戦争放棄・国の交戦権の否定は理想主義的だが、端的には「国家権力という最強の力(暴力)でも自国民の生命・自由を思い通りに支配はできない」というメタルールの設定であり、基本的人権の拡張とも言える。統治される一般庶民の立場では、中国でも朝鮮でも同意する者が多数いてもおかしくない権利擁護規範である。

戦争の終わりなさは、共同体と個人の利害の密接不可分性と他の共同体の異質性・境界性に由来している。その運命共同体としての性格が、自分たちの生き残りや繁栄のためならば「他の共同体を侵略・殺害しても良いという戦争機械としての統一権力」の支持を生むのだが、グローバリズムの現代では人権の境界・差別性は揺らぐ。

国家・民族という抽象的な集合体やその観念的な利害を中心にして政治的思考に捕われると、自分と同じ生物学的構造・心理的機能を備えた「外国・異民族のひとりひとりの顔」は見えなくなるが、国家権力に殺人禁忌の例外として付与されている戦争権は現状でも「大義名分の立つ自衛権・反撃」でしか発動されにくくなっている。

北朝鮮やISIS(イスラム国)のような国際社会でならず者国家とみなされる国であっても、彼らなりの「戦争・ミサイル実験・侵略支配をしなければならない大義名分(やらなければやられる)」を何とか創出してこじつけであってもその正当性を掲げなければならない。中国の強弁する核心的利益も名分創出の一策だが…

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