女性原理の優しさ・非暴力性が優勢な現代は『男性受難の時代』か?:男性原理の暴力・支配が犯罪や野卑として禁圧される

現代は人権思想を前提に『倫理性・平等性・潔癖度』を高め、暴力や卑猥を抑制する『女性原理』と親和するが、歴史的に暴力性・支配欲を含む男性性が厄介視されやすい時代背景もあるか。

http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20160727033012

殺人・強盗・傷害・脅迫など凶悪犯罪全体の80?90%が女性ではなく男性によって行われている事実は重い。『男性ホルモン・男の育てられ方や競争原理・男の社会的役割(落伍すれば誰も庇護しない成人男性)』などの影響で『動物的な暴力性』が表現されやすいのだが、殺したり傷つけたりの戦闘で優位に立てた歴史が長い。

『暴力・武力行使・戦争』が悪とされた歴史は極めて短く、力が強ければ多く奪えるの歴史的・男性原理の発想は今でも各地・各民族で生きる。現代でも安全保障・治安維持・テロ抑止のための暴力は必要悪として要請されるが、戦争やテロなど『暴力の論理で敵を抑える脅す・利益を得る』は男性原理の力の直接的な行使形態だろう。

なぜ男が暴力を行使しやすく、他者の生命を奪ったり傷つけたりの犯罪を犯しやすいかは、根本まで遡れば『遺伝的・動物的な性差(性別役割・存在するだけでは価値を持たない男の歴史的な積み重ね)』に行き着く。暴力のほぼ全面禁止に至る現代では『経済競争・家族扶養以外の支配的な力の発動』は犯罪化しやすいものである。

村上龍の『男は消耗品』という概念はなかなかシニカルなアジテーションだが、歴史的に蓄積されたヒトの男の生物学的な役割だけに着目すれば『戦闘要員・労働力としての側面』が強く、家族を扶養し子孫を残したり共同体を守ったりしたら、戦いや労働の中であっけなく死んでいった個体が恐らく大多数であろう。

男性の弱点でも強みでもあるのは、男性は『存在・身体性そのものが欲求されない(商品価値を持たない)』ということであり、権力・身分・労働によって認められないと誰からも利益を得られないということである。男尊女卑の風習や文化がなければ、『男性の力による優位性』は揺らぎやすい。

それなりの外見の若い女性であれば極論すれば、そこに存在するだけで場を華やがせる一定の価値があるが、残念ながら大多数の男には『存在するだけで認められる機会』はなく、権力・金銭・能力・労働で『自分があなたや社会に役立つ存在である事』を知らしめなければ立つ瀬・居場所がなくなっていく……。

男性は人格でも能力や外見でも上位層(よく出来る人)と下位層(ほとんど出来ない人)のボリュームが厚いが、女性は男性と比較するとそれなりに常識的で卒のない中間層が厚いので男と比較して『極端に粗暴・不潔・非常識な人の割合』が小さい傾向がある。暴力・戦争・支配を禁じられた男性は弱くなりやすいのだろう。

男性原理・男尊女卑は、何だかんだいっても究極的には『力(暴力)』が物事を決するのだから(法律・道徳・理屈で優位でも興奮した相手に殺されれば文句も言えない)という価値観に根ざしているわけで、広義には女性でさえ国際社会でさえも『男権的な暴力・武力の決定力』を仕方のない現実と考える向きは未だ残っているとも言える。

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