登山家ラインホルト・メスナーの言葉から、登山と思索の相性を考える:登山とサッカー・野球の違い

イタリアの登山家ラインホルト・メスナーの「サッカー人気はすさまじいけど、サッカー選手の本に比べると、登山家の本の冊数は圧倒的に多い。それは登山が思索的スポーツだからだ。登山とは考える行為なんだ」 は確かにそうだろう。登山文学のジャンルはあれど、野球やサッカーを敢えて文書・思想で楽しむ人は余りいない。

自然・地理・山岳・歴史・死生観(遭難)などが絡む登山は、登山録や紀行文を交えながら『自然と対峙・交流する原点的な人間像からの思索・哲学』を文書化しやすい。野球やサッカー、ボクシング等は『ルールと場所が決められた勝負の世界』で、文書・思索・人生観より『上手い選手の実際のプレイ』が全てになりやすい。

登山とサッカーとの最大の違いの一つは、登山は『生涯現役で自分なりの登り方・歩き方(登れそうな山・歩けそうな距離)』を楽しむこともできる(健康なら何歳からでも始められる)が、サッカー・野球は基本的には『40代以下の若い人の集団スポーツ』でプロ選手でも年を取ると完全にやめてしまうという事だろう。

勝ち負けなくマイペースでやれる登山やトレッキングと比べると、サッカーにしても野球にしても『勝ち負けにこだわる要素・人生論的な内省や解釈よりも結果が全て』が強い。学生時代に部活で熱心にやっている人でも概ね自分の限界が見えるときっぱりやめてしまう、プロでも『一線で活躍できない限界』を感じると引退する。

『人間』を相手にするか『自然』を相手にするかの違いもあるが、『人工的なルールと勝敗・社会経済的な枠組み』の有無も関係する。『登山計画をやり遂げれば生が充溢する・歩けなくなったら人は死ぬ(実社会でも身体・精神が動かなくなれば危うい)』の死生観は遭難(生還・死亡)と合わせ、登山と思索の相性の良さを生む。

結局、『限界・意欲消失を感じて引退できるスポーツ』なのか『死ぬまで引退できない人生』なのかという対比もできるが、人はどんなにつらくても苦しくても面倒くさくても無意味と感じても『生の道を歩き続けなければならない運命』の下にある。いったん山に入ると登頂でも下山でも『歩く以外にない事』がどこか人生に似る。

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