「人生哲学・自己啓発」カテゴリーアーカイブ

人の有限性と宗教・価値判断・ライフスタイル:STAP細胞あるいは神の属性(無限永遠)よりの連想

小保方晴子ユニットリーダーのSTAP細胞の研究論文の不正が指摘されたり追試の不成功が報じられて、STAP細胞の実在そのものが危ぶまれているようだが、そもそもSTAP細胞がiPS細胞以上の魅惑的な相貌を帯びていたのは、小保方氏がやや大風呂敷を広げた形で『細胞・組織レベルの若返りという未来の可能性』に言及したこともあるだろう。

現代では若さの衰え・喪失を嫌う形で、アンチエイジングやセルフマネジメントに励む人が増える一方で、そういった努力を『自然法則に抗う無益な試み・浅ましい美や若さへの執念』として批判的に見る見方もある。だが、人間にとって『若さ・健康の喪失』と老いと病気が行き着く先の『不可避かつ宿命的な生物としての死』は、古代あるいは有史以前の穴居時代から『神頼み・呪術信仰』をしてでも乗り越えたいものであったのもまた確かなのである。

古代エジプト文明の権力者たちは、死後の世界からの『肉体を持った復活』を信じて、自らの遺体を防腐処理させた上でピラミッドに永久保存させようとしたし、古代中国を初めて統一した秦の始皇帝は、本気で世界の果てに当たる蓬莱・神仙の国に『不老長寿の薬』が存在すると信じて、巨額経費と人員を投じて徐福伝説に象徴されるような不老長寿の薬・仙術の探索隊を派遣し続けたという。

無知蒙昧な迷信まみれの古代人、私欲の深い権力者だから、『死後の復活・不老不死の方法』などという馬鹿げた夢想(死にたくない執着の夢)に取り付かれていただけで、啓蒙的理性が切り開いた文明社会・客観科学・進歩主義の中ではそういった不可能な夢想はもう消え去ったはずだと思うかもしれない。

だが、『宗教』という世界規模では9割以上の人を包摂する、人類に特異な信仰・信念・倫理性というものも『人間の死・有限性の想像力による克服』の結果であり、現在でもイスラム教やキリスト教の『最後の審判・死後の復活』といった教義を真剣に信じていて、俗世・現世の生活を『仮りそめのもの(来るべき神の世で審判される徳を積むためのもの)』と認識している人は少なくない。

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『善人』の増えた現代の先進国と『弱者への同情』を嫌ったフリードリヒ・ニーチェ:現代の善人の争いを回避する優しさ・弱さをどう捉えるか?

昨日書いたドラマ『明日、ママがいない』の記事では、『他者の不幸・苦痛に対する想像力や同情(共感)』の弱さによって、新たないじめ・差別が誘発されるのではないかという危惧について触れた。

だが、コメント欄において、『自分よりも不幸な者を見ることによる安心感』『伝統的な日本の階級社会(身分の違い)の名残と意識』『キリスト教の博愛・弱者救済の倫理観』『人間社会の個人差や自意識に基づく差別・いじめの普遍性』について読み、ふとニーチェの同情否定の思想をイメージしたので書き留めておく。

F.ニーチェの実存主義哲学は、『反キリスト教(弱者貧者の道徳的地位の否定)・反社会福祉・自己肯定の超人思想』に象徴されるように、『ストレートな強さ・美しさ・豊かさ』を賛美する真の貴族主義を掲げた文学的・美学的ロマンスの思想である。

弱くて貧しいが故に正しい(強者・富者は道徳的価値は低い)という大衆の数の論理に裏打ちされたキリスト教道徳を反駁して、強くて美しくて豊かであるが故に正しい(それはあまりにも自明であるが故にそうではない者のルサンチマンを刺激する)という人間の本能・知覚・直観に裏打ちされた古代ギリシアの貴族主義に回帰するかのような『超人思想』を喧伝した。

私は強くて美しく豊かであると思える『超人(ツァラトゥストラ)』を目指し、自分の弱さ・不遇に押しつぶされるような『どうせ自分なんて・今とは違う人生があれば・誰かが助けてくれれば』という自己嫌悪や道徳の逃げ場を閉ざしたニーチェは、ナチズムとも接合した優生主義者(権力志向の反ヒューマニスト)として批判されることもある。

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ドン・ヘラルドやマリリン・マンローの名言(アフォリズム)と雑感

If I had my life to live over, I would try to make more mistakes. I would relax. I would be siller than I have on this trip.

Don Herold

私がもう一度人生を生きられるとしたら、今よりももっとミスをしようとする。リラックスして、今回の人生の旅よりもっと構えずにバカになりたいね。

ドン・ヘラルド
(ロバート・ハリス『アフォリズム』より引用)

『もう一度人生をやり直せたらどうしたいか?』という問いには、『もっとしっかり勉強しておけば良かった・もっと進学や就職を真剣に考えるべきだった・あの時にミスやバカをしないようにすべきだった』というような“今よりもストイックな生き方”を求める答えや後悔が多かったりする。

アメリカの作家のドン・ヘラルドは、64歳の時に書いたエッセイ『もっとたくさんのデイジーを摘もう』で、『想像上のリスク・トラブル・失敗に怯えた人生の損失』を大きく見積もって、『もう一度生きられたら今度はもっとバカになって考え過ぎずにやりたいことをどんどん迷わずにやる』というもっと楽しみたかったの心情(それなりに自由奔放に生きた人物だったにも関わらず)を吐露しているのが面白い。

準備したり用意したり積み上げたりといったプロセスは、一般に備えあれば憂いなしにつながる有効なプロセスではあるが、『想像上のリスクや妄想的な不安感の回避(完全な防御)』のためだけの“遊び心・自由度・チャレンジの欠落し過ぎた人生”にならないようにすることもまた『自分の人生』を生きる上で大切である。

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自我の内にある“俗(欲)”と“聖(知)”の二元構造:ユングのエナンティオドロミア

現実の社会や人間関係に生きようとする時、誰もが自己と他者の意思であるとか利害であるとかが対立するように感じ、自分と他人との自意識や生活のせめぎ合い(折り合えない感覚)を意識するような『俗物』であることを免れない。

私が『俗物』である時、その幸福の要件は物理的・経済的な豊かさ、あるいは他者(社会)からの承認・評価などに委ねざるを得ず、それらを手に入れるための『欲望・情動』によって激しく興奮したりがっかり落胆してしまったりもする。

俗は成功と失敗、勝利と敗北、優越と劣等、善行と罪悪などの分かりやすい『自己と他者との差異』に執着することでもあるから、俗物になっている時にはエネルギッシュではあるが常に気持ちの平静と縁遠くなりやすい。他者との協力や対立の心理に拘泥することで、『思い通りにならない他者・集団力学』に対して冷静な気持ちでいづらくなったり、何とか良い結果を得ようとして自分の能力・努力の限界まで突っ走って燃え尽きてしまうこともある。

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チャールズ・シュルツとジョン・レノンの言葉(アフォリズム)より

My life has no purpose, no direction, no aim, no meaning, and yet I’m happy. I can’t figure it out. What am I doing right?

私の人生には目的も方向性も目標も意味もない。それでもハッピーだ。自分でもなぜだか分からないが、私は知らないうちに何かいいことでもしているのかな?

I love mankind; it’s people I can’t stand.

人類(観念としての人)は愛しているんだけど、耐えられないのは人間(実在する自分の意思と対立する個々の人々)さ。

Charls Schultz

チャールズ・シュルツは、スヌーピーのキャラで知られる漫画『ピーナッツ』の作者で、こういったシニカルな風刺の効いた表現を漫画内で散りばめているらしい。

人類愛・博愛を語って争いや憎しみを否定する人たちは多いが、『人類』は愛せても、実際に意思や価値観を持ち、自らと対立する言葉を語る『人々』を個別に愛するのは簡単なことではない。人間世界に争いごとが絶えない所以でもあるが、『観念・理念』を愛せるように『個物・実際』を愛せる人は、ある種の無私の境地に到達した聖人に近いものかもしれない。

現代社会では『目的・目標を掲げて堅実に計画的に生きるような意味のある人生』が模範とされるし、それから外れた目的志向ではない場当たり的な人生に、劣等感や苦悩を抱えてしまう人も多い。

そういった直線的で勤勉な目的志向から軽妙に外れて、俺は自分でも分からないがなぜかいつもハッピーだと思えるおどけた感覚が面白いと思う。こんなに自分が幸せなのはきっと自分が正しいことをしているからではないか(俺は何か正しいことでもやったのか?その見返りできっと楽しいんだろう?)という、自己満足のご都合主義的な解釈も楽観主義のシュールさがあって良い。

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“おひとり様”の将来不安・孤独感はどのように解消すれば良いか?:他者との会話や関係・相互扶助を維持する努力

“おひとり様”というのが『話し相手・遊び相手・活動に誘える相手』が一人もいない完全な孤独状態の延々とした継続であれば、9割がたの人は耐えられないというか、死なないまでも充実した面白い人生とは思いにくいだろう。

人間の感じる楽しさや面白さの多くは、『自分が面白い・楽しい・美しいといった感情を感じること』や『自分が物事を深く思考したり多面的に解釈したりすること』だけではやや不十分であり、それを誰かに伝えて共有したり反応してもらったりすることで楽しさや面白さの質感が高まるからである。

このままひとりだったら……「おひとり様」の将来への不安

ラカン派の精神分析では『人間の欲望とは他者の欲望の欲望である』という風にメタレベルの定義がなされたりもする。より噛み砕いて言えば、『自分が好意を持てる他者の自分に対する興味・欲望・反応(そういった他者から自分に向けられる欲望・関心にまつわる想像力を含む)』というものが完全にゼロになってしまえば、人間は『心理的な欲望』を持てなくなって『生理的な欲求(本能)』だけで命をつなぐような受動態の生き方に陥る。

典型的には誰も話し相手がいない独居老人が、ご飯を食べてテレビを見て寝るだけの生活パターンに嵌るようなものだが、同じおひとり様であっても『地域社会・地域行事とのつながり』や『友人知人とのコミュニティ(誰かと知り合ったり何らかの活動に自分を合わせたりしようとする努力)』があればまた違った形の『心理的な欲望』が芽生えるだろう。

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