ドラマ『明日、ママがいない』に対するクレーム:“人間の悪・差別・本音”を誇張したフィクションと当事者性を持つ人への影響

ドラマ『明日、ママがいない』には、母親から赤ちゃんポストに遺棄された子供や親から虐待を受けたり養育を放棄されたりした子供たちが登場する。そういった親に愛してもらえない子供たちの『不幸な境遇・弱りきった気持ち』に、更に追い討ちをかける過酷ないじめ・差別・職員による暴言が過激に表現される。

この親のいない子供を更に虐待したり差別したりする人間がいるという表現に対して、関係者から『児童擁護施設で生活している(生活していた過去のある)子供たちの心が傷ついたり、ドラマを真似したいじめを誘発する恐れがある』というクレームが寄せられ一部で物議を醸しているという。

野島伸司の脚本には『101回目のプロポーズ』『ひとつ屋根の下』のような王道のトレンディドラマ(恋愛・家族もの)もあるのだが、教師と生徒の禁断の愛をテーマとした1993年の『高校教師』以降の作品ではかなり色彩が異なってきた。

『家なき子』『聖者の行進』を代表として、『暴力と虐待・貧困(無能)と差別・いじめと自殺・障害者差別・倫理と建前の崩壊(偽善性の暴露)』などの豊かな明るい現代社会の表層から隠蔽(排除)されている暗い問題を扱うことが増えた。

そういった暗くて貧しくて誰も守ってくれない悲惨な境遇、理性も倫理も救いもない世界に閉じ込められて生きている人が、この日本のどこかにも確かにいるのだという現実を知らしめるような重たい作品を野島は好んで書くが、『悲惨さ・不幸さの強調(フィクションではあるが一部ではリアルとも接合する表現)』がどぎついので、ドラマのいじめられる者の設定との共通性が僅かでもあれば気分が悪くなるような人がいても不思議ではない。

自分よりも劣っている者を見つけては冷淡・残酷に当たろうとする弱き人間の悪、そういった冷淡さや残酷さを是認(傍観)する『大衆の差別感情の根深さ』を抉るような作風を示すようになった野島伸司は、意識的に『常識的・建前的な価値観(立場)からの反発』を煽り立てるような挑発をすることで、『視聴者の本音』を引き出そうとする。

そこには、『社会派ドラマの話題作りによる啓発・問題提起』と『視聴率・売上による商業的成功』という二つの目的があるが、その啓発や問題提起の効果はどちらかというと『加害者・傍観者・一般的な大衆(差別の本音を持つ大衆)』をターゲットにしたものなので、『被害者・当事者』にとってはトラウマや嫌な記憶・感覚を刺激されるような表現として受け取られやすい。

しかし、『親から捨てられた子供の過酷な境遇・つらい心情』をフィクションのドラマの物語として誇張して表現すること自体が許されないわけではなく、一定以上の年齢の視聴者に向けて『物語の全体(初回から最終回までの流れと結末)を通した主題』を投げかける作品の意義もあるだろう。

フィクションと類似した状況を経験したことのある被害者・当事者への悪影響を考慮し過ぎれば、『殺人事件の推理・テロ事件のアクション・凶悪犯罪や性犯罪・異常心理やサイコパスの事件・いじめや虐待の社会問題』などを扱った創作物そのものが作りづらくなる。

どんな時代・社会にも必ずどこかにある人間の悲惨さや不幸さ、悪性、卑劣さ(残酷さ)、劣情、汚さ・狡さなどを、『怒り・恐怖・恥(情けなさ)・居心地の悪さ』などの感情を揺さぶる形で衝撃的に伝えること自体ができなくなる不利益は大きい。『常識・建前・節度のヴェール(大勢が見たくない現実やレアケースを見ないようにしてくれる仕組み)』によって、臭い物には蓋の原理はより強まり、悪意や差別は潜在的に温存されて見えにくくなる。

『明日、ママがいない』では、自分を愛して守ってくれる親(母)がいない子供たちの寂しさ・心細さ・危険性を描きながら、『親がいない子供を差別・軽視・虐待する人たちの悪・弱さ・卑劣さ(情けなさ)』を残酷かつ冷淡ないじめや暴力暴言(ペット扱い・ポストなどの渾名による負の烙印)を通して訴えようとしているという風に見ることができる。

『子供の養育責任を果たせない親』と『子供を捨てざるを得なかった親の各種の事情・要因(親自身の問題・無責任や社会経済的な構造要因も含め)』によって、親のいない子供のつらくて困難な状態が生まれるわけだが、そこには『子供自身の負うべき責任(他者から非難されたりいじめられたりする責任)』は全く存在しない。

赤ちゃんポストに遺棄されたり虐待をされたりしたことに対して、その子供自身が負うべき責任が一切存在しないにも関わらず、『親がいない(親から大切にしてもらえない)境遇・施設に預けられている状況』に対して、まるでその子供自身に価値がないか(致命的欠陥があるか)のような酷い対応や差別、いじめをする人がいるのはなぜなのだろうかという素朴な問いを持った上で、こういったテーマ性のあるドラマを見ることができるかどうかが鍵なのだろう。

ドラマを見た子供たちが、『ドラマと同じようないじめ』をするかもしれないという危惧・懸念が持たれているが、『ドラマ内容の解釈の深み』がなくて単純な模倣・からかいに発展しやすい子供たちがこういったドラマを見る時には、一緒に見る親が『望ましい物語の解釈・他者を思いやる倫理観への補助線』を会話の中で引いてあげることが大切である。

仮に、ドラマと似たような過酷・孤独な境遇にある同世代のクラスメイトを、バカにしたりいじめたりすることがあるのだとすれば、『そのクラスメイトの不幸の原因』がその友達自身にはないこと(どんなに努力してもその境遇を自力では乗り越えられないこと)、『自分が相手と同じような境遇』に置かれた時に自分がしているようないじめを受けたら精神的に耐えることができるかどうかを想像させるだけでも意味がある。

『明日、ママがいない』の初回では、『理不尽な環境の中で弱っている子供・つらくて悲しい思いをしている子供』を思いやったり助けてあげなければならないという建前や常識の倫理観が崩壊してしまう場所(個人)がこの社会にあることを、『自己形成の基盤となるべき親子関係の崩壊や喪失』と共鳴させる形で示している。

『自分よりも不幸で惨めな人や弱っている人を見つけて叩こうとする人間性の卑しさ・情けなさ(異質性を排除したり保身を図る悪しき大衆主義の貶め合い)』は、現代日本で大きな社会問題や差別・格差の問題を生み出す『すべての不遇は自己責任(その人の価値の不足)の原動力』にもなっている。

『子供を見捨てる親・親から見捨てられた子供』は人格形成や世界観の構築において不利益・歪みが生じやすくなるが、その不利益や歪みの何割かは『その子供の責任ではない責任を負わせること(親から捨てられた子供というスティグマが押されること)』によって生まれていると推測される。その意味では、『明日、ママがいない』における苛烈ないじめ・暴言は、過去の『聖者の行進』の知的障害者の差別と同じく、自分はそのような卑劣で残酷な人にはできるだけならずにいたいとする反面教師として見られるべき作品とも言える。

誰もが自分の内面に少なからず抱え込んでいる“人間の悪・差別・本音”に対して、いったん自覚的な心理状態を作り出してくれる作品として、こういった暗くて重たい作品もたまにはあっても良いと思うが、『深刻な被害者性・当事者性を持つ人』がうっかり見てしまってショックを受けないような配慮(原則として作品を見るか見ないかはその人の判断によるべきだが)の方法も考えるべきである。