「倫理学」タグアーカイブ

動物の権利と人間のエゴイズム:加速するセンシティブな倫理観

20世紀後半から倫理学には『動物の権利(アニマル・ライツ)』という分野が設けられたが、動物の生命や感覚にも『人になぞらえられるべき一定の価値』があるという倫理観・判断基準は比較的新しいものである。

人間は動物を家畜化して食肉にしたり、医学・科学の発展のために実験動物として利用したり、学術・鑑賞のために動物園の檻(研究室の飼育環境)に閉じ込めたり、愛玩するために品種改良したり飼育したりする。

その意味では、人間は動物を人間のための『価値ある資源』として利用する存在であり、『動物虐待』と『必然的・不可避な利用(食用・鑑賞用・飼育用・実験用など)』との差違もまた人間的な感情や感覚の受け取り方に由来することになるだろう。

一方的に殺される側、利用される側の動物からすれば、『人間の側の理由・事情・必要性』などどうでもいいことではあるが、動物は人間との知能・実力(戦闘能力)の差によってどうしても『一切殺されない・利用されない存在』になることは現実的に不可能である。

映画『猿の惑星』のシーザーのように、人間と同等の知能と意思疎通能力・戦闘能力・道具製作を持った『新たな種(人類の天敵の種)』でも出現しない限り、地球上において『食肉・飼育をはじめとする人が必要とする動物資源の利用』を実力行使でやめさせられる種は不在だからである。仮に、進化した類人猿や宇宙から飛来した異星人に、人類が取って代わられたとしても、次は『人類に代わった優性種』が他の動物資源を利用しないという保証は何らないが。

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米国アリゾナ州の薬殺による死刑失敗と被害者遺族の苦痛:死刑にしたい思いと死刑を執行・観察するストレス

家族や親しい人が殺されるなど深刻な被害を受けた場合に、『殺したいほどの怨恨感情』は芽生え得るが『実際に殺す行為・加害者の死を見たい心情』とは隔たりがある。現代で仇討ちを認めても大半は実行できない。

死刑また失敗。2時間の激しい苦悶に見守る人々が「耐えられない」。(アリゾナ州)

殺されたから関係者が殺し返すという応報刑はシンプルだが、『殺人禁忌・暴力禁止・人権感覚(共感性)』が教育されて発達した現代では、どんなに酷い事をされたとしても『人を殺せる人・物理的に殺傷できる人』というのは相対的に多くない。

怒りに任せて衝動的に殺す傷害致死のケース、挑発的な加害者を殺すケースはあるかもしれないが。『死に怯える死刑囚・死刑のプロセスに苦悶する相手』を直接的に見たいと思う復讐心はあっても、実際にそれを執行・観察するとなると『死の恐怖・命乞いの必死さの感化』で耐え切れなくなり止めてくれと願う人は多いだろう。

戦時や治安崩壊でもない平時における『利己的・欲望的・計画的な殺人者(何の落ち度も関係もない人を殺せる人)』は、やはり人格形成や精神状態に何らかの異常性があると考えられる。一般的な感受性の形成をしてきた人にとって、怨恨や怒りを向ける相手でも、人を殺す事は快感ではなく圧倒的ストレス・苦痛でしかない。

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エマニュエル・レヴィナスの生成の哲学と他者の『顔』からの呼びかけが生む倫理・意味・限界:3

レヴィナスは他者との対峙や対話が生み出す倫理の起点を『汝、殺すなかれ』の根本規範に求めており、『他者の顔』と向き合って語り合おうとするものは決してその人を殺せないが、『他者のカテゴライズされた観念(敵対者・犯罪者・異民族・異常者として分類された実際に顔を見ないままの他者)』だけを頭の中で考え続ける人は、戦争・虐殺・殺人(重犯罪)・処刑・監禁拷問・放置(見殺し)などあらゆる残酷な行為を他者に対して行うことが潜在的に可能であるとした。

能力的には殺せるのに殺さない(『顔(相手の人格・背景)』と向き合った相手を殺したくないと思う)のが人倫の基盤であり、現実的には見捨てていっても良いのに見捨てずに援助するのが人間性の発露なのだというのがレヴィナスの倫理学的思考であるが、その根底には原始的時代における『カニバリズム(人肉食)の禁忌』という文明的・人倫的な感受性の芽生えが置かれている。

その人倫・人間性を信頼できなくなった人間は、類似した価値観や生き方を持つ仲間集団から外れた異質な他者を排除しようとする『全体主義の暴力機構(管理・支配・懲罰のシステム)』を自ら作り上げていくとした。更に現代では『機会の平等の前提・結果から類推される能力や努力の高低』によってすべてが自己責任(自業自得)として帰結されたり、かなりの人が『他者を助ける余裕がない存在としての弱者意識(被害者意識)』を持つようになったことで、他者の顔と向き合うことにある種の恐れとプレッシャー、煩わしさを感じやすくなった。

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エマニュエル・レヴィナスの生成の哲学とエゴイズム・逃走の欲求:2

自由で豊かな人間は自らの有限の運命・能力を否定しようとして『逃走の欲求』を抱き、倦怠・怠惰に陥りやすくなるが、それでも人間存在(動物としての人間)を根底的に束縛している自然法則や生存本能や摂理・運命といっても良い『契約』を破棄することはできない。

確かに、自殺を選んでしまう人(身体的精神的な苦痛に打ち負かされる人)もいるが、自殺は『自意識を持った人間に科せられた契約』への回答にはならず、自意識や認識世界そのものも消滅させてしまう『ルール自体の違反』であり、私が私であるという自意識の元で『生の持つ意味・価値』の葛藤を解消することとは何の関係もない。

この世界に生み出されて投企された人間は、いくら自由で豊かになろうとも、『否定したはずの運命』に本能・自然・有限性・倦怠(実存的疲労)によって再び捕捉される運命の下にある。

無限性の神を科学と理性で否定したからといって、人間が傲慢にも無限性を帯びるわけではないというレヴィナスの洞察があるわけだが、レヴィナスは人間の人生は倦怠や疲労を感じていても、自分には生きるのが億劫でつらいといっていても、それでも幸福であることに変わりがないと断言する。

享受とは仏教的な『知足』と言い換えても良いが、自分が太陽光を始原とするエネルギーを享受すること、自分と自分以外の他者の労働・行為などを享受して生きていること、何もしなくてだらけていても何もしない状態を享受していることそのものが、何ものも享受できなくなる強制的な生の終了よりは幸福だと合理的に考えられるからである。

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STAP細胞論文問題における『捏造・改竄の定義』を理研に要求した弁護団と研究者倫理のあり方

弁護士の戦術は理研による小保方晴子氏の懲戒処分を回避するためのものであり、STAP細胞の作製・実在を巡る科学的議論からは逸れているが、虚偽であることを知りながらや騙す意図を持っての前提がある。

<STAP論文>捏造定義で理研が回答「結論出すときに」

『捏造』や『改竄』があるのか無いのかは、小保方氏の科学者としての職業倫理・人格評価に関わるクリティカルな問題である。なので、懲戒処分を受けるにしてもその後の科学者としての居場所・キャリアを確保できるかどうかということに関わる、本人にとっては重要な問題と言わざるを得ない。

事実ではないことを事実であると見せかける操作・策略をすることが『捏造』、客観的なデータや数字、証拠を自分に都合の良いように書き換えることが『改竄』だが、仮に科学者としての研究・実験を行っている最中に意図的な捏造・改竄を行ったという事なら、科学者としての人格的・倫理的な資質の致命的欠如の指摘になる。

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代理出産の法律・倫理の問題点とプライスレスな市場に乗らないもの

母子関係の認定が『分娩』か『遺伝子』かは法律のテクニカルな問題だが、代理母には『契約履行を妨げる感情の絡むトラブル』『代理母死亡・障害児出産のリスクと事後対応』『貧困ビジネス化』の問題はある。

意見分かれる「代理出産」問題 どんな議論があるのか

先端生殖医療の進歩が従来の妊娠・出産や母子関係の意味合いを部分的に変更する可能性はあるが、『他人の子宮の商品化』に対する倫理的反発は『金銭・科学万能主義』への反発につながる。金銭と身体・性との直接交換の禁忌(市場に乗らないもの)は、倫理の核であると同時に『聖性・特別さの付与』だが。

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