米国アリゾナ州の薬殺による死刑失敗と被害者遺族の苦痛:死刑にしたい思いと死刑を執行・観察するストレス

家族や親しい人が殺されるなど深刻な被害を受けた場合に、『殺したいほどの怨恨感情』は芽生え得るが『実際に殺す行為・加害者の死を見たい心情』とは隔たりがある。現代で仇討ちを認めても大半は実行できない。

死刑また失敗。2時間の激しい苦悶に見守る人々が「耐えられない」。(アリゾナ州)

殺されたから関係者が殺し返すという応報刑はシンプルだが、『殺人禁忌・暴力禁止・人権感覚(共感性)』が教育されて発達した現代では、どんなに酷い事をされたとしても『人を殺せる人・物理的に殺傷できる人』というのは相対的に多くない。

怒りに任せて衝動的に殺す傷害致死のケース、挑発的な加害者を殺すケースはあるかもしれないが。『死に怯える死刑囚・死刑のプロセスに苦悶する相手』を直接的に見たいと思う復讐心はあっても、実際にそれを執行・観察するとなると『死の恐怖・命乞いの必死さの感化』で耐え切れなくなり止めてくれと願う人は多いだろう。

戦時や治安崩壊でもない平時における『利己的・欲望的・計画的な殺人者(何の落ち度も関係もない人を殺せる人)』は、やはり人格形成や精神状態に何らかの異常性があると考えられる。一般的な感受性の形成をしてきた人にとって、怨恨や怒りを向ける相手でも、人を殺す事は快感ではなく圧倒的ストレス・苦痛でしかない。

日本の死刑の問題点として、絞首刑であること以外の死刑の実態が殆ど分からない『密室・非公開の秘密主義』があるが、刑罰とはいえ人間を計画的に殺すプロセスは残酷でありその表情・遺体は痛々しいものである為、機械的・秘密裏に執行する秘密主義のほうが逆に被害者遺族の心情の保護になるという考え方もある。

死刑賛成の人は『被害者の復讐感情を満たすため』に死刑が必要と言う事もあるが、死刑を被害者の応報刑にすると、『被害者遺族の希望・感情の為に国家が代理殺人をするロジック』になりこれは被害者遺族の心情的な重荷になりかねない。故に死刑は基本的に『国家の規範秩序と加害者の責任の図式』で考える必要があると思う。

アメリカの死刑の方法は『銃殺→絞首→電気椅子→薬殺』というように変わってきたが、これは『直接的な加害性(暴力性)の弱い方法への移行』であり、『執行者の罪悪感(後味の悪さ)の緩和』でもある。

一般的な性格傾向や心理状態では復讐感情があっても人を殺したくない人が大半であるため、死刑はできるだけ間接的・機械的な方法へと変わってきたが、その究極の理想は『外傷・流血・苦悶を見ない安楽死に近い薬殺』であるかのようだ。

そこまで安楽・即時な死になると、刑罰としての死刑の意義すら失われるが。苦痛を少なくして殺すには銃殺・ギロチンのほうが適しているが、外観の損傷が大きい方法は敬遠される。