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吉本隆明の『反権力・脱政治・大衆論』から日本の政治状況・国民の意識を見る:2

吉本隆明の『転向論』は、左翼知識人の『戦前・戦後の二重の転向』を自己批判的に問題視する。それは『戦前の左翼→戦争協力者(体制派プロパガンジストへの第一の転向)』と『戦後の戦争協力者→左翼(反体制の平和主義者への第二の転向)』の自己保身的な転向に対する廉恥心の無さの糾弾であった。

私は戦時中も本当は『戦争反対』の立場だったのだが、権力から拘束されて脅されて仕方なく『戦争協力』の見せかけをしていただけなのだという左翼転向派のエクスキューズは、吉本隆明にとって『戦前に自分と同じくらいの若い年齢で死んでいった同胞に対する裏切り・負い目』となってトラウマ的に残り続けた。

吉本隆明の『反権力・脱政治・大衆論』から日本の政治状況・国民の意識を見る:1

この辺は、私も含めて現代に生きる戦争や動員を体験として知らない世代には本質的理解が難しいのだが、日教組の『反権力の平和主義教育・個人主義教育』の原点にあるのも、『私たち教職員は本当は子供たちを戦争に行かせることになる民族教育や思想教育には反対だったのだ(だから戦後日本では絶対に国家権力に盲目的に従属したり進んで自己犠牲に進む人間を作り出さない個性重視の教育をしていく)』という罪悪感(戦前の体制に協力した免罪符の求め)や自己欺瞞(子供を殺したり殺されたりする場に行かせたい教員は本当はいなかったのだ)だと言えるだろう。

吉本隆明は、事後的に『私はあの時、本当は権力の強制する戦争に反対だったのだ』という左翼知識人の手のひら返しの自己欺瞞に対する嫌悪・不快を感じながらも、そこに『知識人と大衆層に共通する人間の保身的な本性』を見て取る。

決定的な敗戦によって日本人の大衆は、あれほどかぶれていた皇国主義・徹底抗戦・滅私奉公のイデオロギーをあっけなく捨て去ってしまい、当時は軍国主義にかぶれて本土での徹底抗戦をも覚悟していた青年吉本の素朴な国家感・人生観は『大人が取り戻した現実主義』の前に瓦解した。

鬼畜米英と憎悪していた米国を戦後は慈悲深い保護者のように慕い、お国(天皇)のためにいつ死んでも良い(死を恐怖するのは愛国心が足りない臆病者)と豪語していた兵士はなけなしの毛布・食糧を集めて明日の生活の心配ばかりをし始め、戦争に協力しない反体制派を非国民と弾圧していた人々は急に『平和主義・個人主義・経済重視の生活』に生き方や考え方を現実的なものに切り替えていった。

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吉本隆明の『反権力・脱政治・大衆論』から日本の政治状況・国民の意識を見る:1

現在の日本では『憲法・安全保障・外交政策(対中国・朝鮮半島)』を巡る対立が、『右翼(民族主義・権力志向・反個人主義)と左翼(人権主義・反権力志向・個人主義)の二項図式』で語られることが多い。

こういった語法は本来の右翼(保守)と左翼(革新)の定義とは関係がないものだが、日本では『自由・平等・人権・護憲・平和・個人の尊重』などは、ネトウヨとも呼ばれる右翼目線では、国家の集合主義的な総合力を低下させる『左翼的な思想・概念』として扱われることが多い。

反体制派の左翼とは、日本の歴史では共産党・社会党(社民党)・全共闘運動・左翼過激派などと関係する『共産主義者(社会主義者)・反資本主義者・反米主義者(反米の文脈での平和主義運動家)』などを指してきたが、今のネットで言われているサヨクはそういった共産主義・社会主義よりもむしろ『個人主義・自由主義(権力からの自由を重視して集団主義的な強制に抵抗する思想)』と深く関係しているように見える。

本来の右翼と左翼の定義から外れてきた、現代のネット上における政治的・思想的に対立する立場を『ウヨク・サヨク』と表記する。

日本人の民族的統合と仮想敵(中国・朝鮮半島)に対する戦闘の構えを強調するウヨクは、民族・国家単位のイデオロギーや軍事増強にこだわらずに『個人の自由・権利・平和』を普遍的価値として強調するサヨクを『反日勢力・お花畑・非現実的な空論家』と揶揄することが多い。

国家の威厳と個人の幸福が一体化しているような拡張自己の思想であり、実際の戦争や自己負担にまで率先して参加するかは分からないが、言葉の上では『私(個人)よりも国家(権力)の拡張』という価値観を提示する。

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『徴兵制』の是非の根本的な問題意識はどこにあるのか?:『徴兵は不要』と『徴兵は禁止』の違い

「徴兵制」掲げたパンフが波紋=保守系「内容に問題多い」―民主

『徴兵制』は共同体と権力について本質的な価値判断を含んでいる。徴兵制(素人兵)は軍隊・兵器の高度化で不要になったの主張と徴兵制は人権侵害・違憲で許されないの主張は発想の力点が異なる。

国家の起源は『共同防衛・共同侵略の氏族集団(都市国家や村落共同体)』であり、人権も自由も立憲主義もへったくれもない古代?中世においては『暴力による土地・資源・労働力の争奪戦』が不可避な現実としてあり、集団が戦争をする権限と君主が構成員に命令する強制力を持つ事は集団の生存保持と存在意義に直結していた。

近代国家はナショナリズムと国民教育で士気を高めた『国民軍』を徴兵し、かつてない規模の死傷者を出す激しい戦争を展開した。近代国家の歴史は、国民に自発的な血と汗の献身をさせながら、領土・市場を拡大しようとする『戦争機械』として幕を開け、無力な個人は総力戦・大量虐殺・特攻・原爆などの悲劇に喘がされた。

第二次世界大戦では多くの国々において『国家共同体』は『個人の生命』に優越する絶対的な権威・価値となり、国民個人の生きる意義は『国家への貢献』だと教育された。前近代の軍事は貴族階級の名誉ある義務だが、近代の徴兵も戦士階級が一般化した名誉ある国民の義務として認識されたが、近代戦は武勇の徳を無意味化した。

自分の命を投げ出してでも守り抜くという『愛国心』と『家族愛』のファンタジーが相互作用して、敵対国の人々を『対話不能な残酷な悪鬼・野蛮人(やらなければやられることになる不倶戴天の敵)』として刷り込む事で、国・家族を守る為の戦争をすることが正しい、それ以外に選択肢はないという世界認識が前提とされた。

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“機械化・自動化”と機械・動物を使役し続けた人間の歴史

『機械(machine)』とは、権利と自由を持たない無機的な道具であり装置(システム)である。古代ギリシアの時代から、人間の命令に従って自動で動いて仕事(物事)を成し遂げる『機械』は技術的・思想的な憧れの道具・仕組みであった。

しかし、万人が自由かつ平等という人権思想などあるはずもない古代社会は、弱肉強食のロジックで動く戦争の世界でもあり、戦いの敗者を『奴隷(擬制された生命ある機械)』として一方的に使役・売買することで機械発明のニーズが押さえ込まれていた。

人類が労働を自動化・効率化する『本格的な機械』と遭遇するのは、18世紀イギリスの産業革命期であるが、蒸気機関(内燃機関)・紡績機・工場機械・印刷機などは資本主義の利潤追求・児童労働・長時間労働などと結びつくことで、機械が人間を楽にするよりむしろ『異なる質の過剰な肉体労働(機械を操作したり機械に使われるような肉体労働)』を押し付けることになった。

システム化された工場の機械群に頼らないそれ以前のマニュファクチュア(手作業)の職人たちの多くが、機械によって仕事を奪われて失業したが、『機械化・自動化による仕事の減少』は現代においても憂慮されることのある問題である。当時は機械を破壊して仕事を取り戻そうとする『ラッダイト運動(機械破壊運動)』が起こったりもした。

カール・マルクスは『資本論』の中で、工場機械が人間の労働から一つの仕事を人間たちだけで最初から最後まで責任を持って仕上げる『全体労働(仕事の意味)』を奪ってしまうと語っている。工業社会で働く人間は、労働の機械化によって味気ない全体の一部分の仕事だけをノルマ的に担当するだけの『部分労働』に従事せざるを得なくなり、製品の生産効率は上がるが人間の労働の充実感が落ちるというわけである。

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“八紘一宇”は“みんなで仲良く助け合い”の中立的な概念なのか?:中国の天子・日本の天皇と八紘一宇

八紘一宇は古代中国の漢籍に記された『八紘(8つの方位=世界)・一宇(1つの屋根)』に起源があり、日本では『日本書紀 三巻』の神武天皇の神武東征からの日本統一の気概を示すくだりで『八紘を掩いて宇と為さん事(世界を天皇の威徳で覆って一つの家にしていく事)』と記されたのが初めであるという。

“八紘一宇”という四字熟語は、日蓮主義者の田中智学が国体研究の中で原文『掩八紘而爲宇』を四字熟語として造語したものであるが、“八紘”と“一宇”は古代中国の慣用句の原義においては、天下統治の天命を拝受した天子(皇帝・国王)の統一権力によってバラバラだった世界が一つの秩序にまとめられる、天子の威徳が世界の隅々にまで及ぶという意味合いがある。

日本の八紘一宇も、神武天皇の神武東征の神話の場面が初出であることから、『世界を一つの屋根の下に覆っていく正統な主体(世界の家主・家長)』としての天皇・皇統(万世一系)といったものを無視することは難しく、戦時中には『皇国・国体』といったものが世界の屋根を支える中心軸であったことは疑うことが難しい。

世界や異民族を覆うような屋根・家は、所有者や家長のいない誰でも自由に使って良い空家ではなく、『中国の天子(皇帝)・日本の天皇』が世界を覆う屋根(家)の秩序や規範を制定する家長として仮定されていることは、中国古典や記紀の世界観(統一支配や建国の正当化のエピソード)からも自明だろう。

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パリの新聞社『シャルリー・エブド』の襲撃事件:近代の『唯物論・科学主義・自由主義』と折り合えないイスラーム

近代化とは『唯物論・科学主義の世界観』を前提とする時代の革命的変化で、前近代の宗教霊魂・怪物など全て『無知・迷信』として退けたが、『目に見えない霊的・価値的な真理』を求める人間の本性は消えない。

フランス・パリの新聞社『シャルリー・エブド』がイスラム過激派を含むグループに襲撃されたが、この事件も『目に見えないものを想像の産物として軽視する近代社会』との深刻な価値対立に根ざしているものである。

アラーやムハンマドの風刺は、キリスト教が十分に世俗化してパロディにしても許されるヨーロッパ社会では 、『多様な風刺コンテンツの一つ』に過ぎないが、そのロジックはイスラム教や生活様式が十分に世俗化・近代化していないイスラム圏にはほとんど通用しない一人よがりなものでもある。

ローマ法王「信仰の侮辱」戒める 仏新聞社襲撃

近代人は『唯物論・科学主義』を真理とする法的・社会的秩序の世界で生きているため、『目に見えないものの価値の信奉』によって『人命・自由』を侵害しても良いとする原理主義を深く理解しにくい。宗教も幽霊も怪物も消費されるコンテンツの一つとなり、『全ての出来事を妖怪のせい』にする妖怪ウォッチ的なフィクションである。

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