“八紘一宇”は“みんなで仲良く助け合い”の中立的な概念なのか?:中国の天子・日本の天皇と八紘一宇

八紘一宇は古代中国の漢籍に記された『八紘(8つの方位=世界)・一宇(1つの屋根)』に起源があり、日本では『日本書紀 三巻』の神武天皇の神武東征からの日本統一の気概を示すくだりで『八紘を掩いて宇と為さん事(世界を天皇の威徳で覆って一つの家にしていく事)』と記されたのが初めであるという。

“八紘一宇”という四字熟語は、日蓮主義者の田中智学が国体研究の中で原文『掩八紘而爲宇』を四字熟語として造語したものであるが、“八紘”と“一宇”は古代中国の慣用句の原義においては、天下統治の天命を拝受した天子(皇帝・国王)の統一権力によってバラバラだった世界が一つの秩序にまとめられる、天子の威徳が世界の隅々にまで及ぶという意味合いがある。

日本の八紘一宇も、神武天皇の神武東征の神話の場面が初出であることから、『世界を一つの屋根の下に覆っていく正統な主体(世界の家主・家長)』としての天皇・皇統(万世一系)といったものを無視することは難しく、戦時中には『皇国・国体』といったものが世界の屋根を支える中心軸であったことは疑うことが難しい。

世界や異民族を覆うような屋根・家は、所有者や家長のいない誰でも自由に使って良い空家ではなく、『中国の天子(皇帝)・日本の天皇』が世界を覆う屋根(家)の秩序や規範を制定する家長として仮定されていることは、中国古典や記紀の世界観(統一支配や建国の正当化のエピソード)からも自明だろう。

八紘一宇の巨大な屋根は、世界平和や五族協和(民族融和)とも結びついているけれど、それは天命拝受の天子や万世一系の天皇が『不可侵の権威者・保護者(命令権のある家父長)』として前提になっているからであり、究極的には『家長に家族としてまつろわぬ者(最高権威の威徳になびかず命令に従わない者)』は征伐や排除を受けることになる。

八紘一宇は戦時中の政策方針文書を見てもわかるように、『皇国・天皇を核心とする垂直統合(支配統合)の世界観』であり『世界のすべての国々・民族を並列において等しく扱う水平分散(相対主義)の世界観』ではない。

世界が一つの屋根の下で、一つの家族のように睦み合うのは結構なことであるが、その家(屋根)や家族の中で中心的な影響力を持つのは自国であり、世界に一つしか家がないということは『家父長が命令する家族としての義務・責任・懲罰』から逃れる場所も手段もない(DV的な家族内暴力が起こっても誰にも抑止できない)という閉鎖性が強い。

八紘一宇という概念は、大東亜共栄圏・国民総動員(非国民・共産主義者のあぶりだし)を推進する戦時中のスローガンとして、『忠君報国・一君万民・一億一心・滅私奉公』などの標語と合わせて使われ続けた経緯があり、『歴史的な誤用・目的・印象の影響』をゼロにしてまっさらな中立的概念として用いることが困難である。

三原じゅんこ氏は、企業の国際的な課税回避の問題を取り上げる中で「八紘一宇の理念のもとに、世界が一つの家族のようにむつみあい、助け合えるような経済、税の仕組みを運用することを確認する崇高な政治的合意文書のようなものを、安倍総理こそが世界中に提案していくべきだと思う」と語ったという。

この国際的なタックスヘイブン(法の網を抜ける実質的脱税)の問題で、わざわざ東アジアの歴史的・神話的影響が強い八紘一宇という言葉を取ってつけたように用いる必要性がないのではないかと思う。

経済問題で用いる言葉としては地域性・歴史性がちょっと強すぎるし、タックスヘイブン(租税回避地)を潰したとしても、『世界が一つの家族のように助け合う経済・税制の仕組み』を作ることとは全く関係がない。

世界を覆う家の家長となる八紘一宇を掲げ、外国や異民族を自分たちと同じ家族のようにして処遇して助けるのであれば、日米欧の先進国はもっと移民を受け入れたり生活水準を落としてでも国際貢献(途上国・貧困層のための支援増額)しなければならない。それは強力なグローバリズム礼賛(世界規模の所得平準化)によって先進国の人々が相対的に貧しくなる恐れが強く、(ただでさえ現状の経済生活の不満に基づく移民排斥・自国民優遇の主張が増えている先進諸国においては)自国民の賛同が殆ど得られないように思う。