特定秘密保護法案と国家安全保障の全面的委任(国民の免責)あるいは無批判な聖域化

特定秘密保護法案は『防衛・外交・テロ防止・スパイ活動防止』の四分野において、行政機関が特定秘密を指定してフリーハンドな政治判断と国民から事後的に責任を問われない行動(秘密の非公開期間の長期延長)ができるようにする法案である。

直接的に『言論・表現・思想信条の弾圧』につながる内容を規定する条文ではないが、『政府・行政への全権委任領域(主権者が安全保障分野に関知できない状況)の法的根拠』を準備するものである。

『政府の広義の国家安全保障分野・人権擁護分野における結果責任』が曖昧になるなど、国民主権の民主国家としては政権の安全保障の判断に対するチェック機能が備わっていない問題を孕んでいる。

『情報公開法・公文書管理法』の制約も及ばないため、国民は自分が生きてきた年代の政権の国家安全保障や人権問題(公安・監視活動)を直接的にチェックして評価することが不可能となり、秘密が公開される時には当時の首相・閣僚・官僚は既に鬼籍に入っていて何の責任も追及されない(何をやっても痛くも痒くもない)という話にもなる。

特定秘密を漏洩した公務員だけではなく、不適切な手段(脅迫・買収・唆し等)で秘密を聞き出そうとした民間人までも処罰対象にしていることも問題で、『学問・報道・創作・芸術・表現』などの分野においてチリング・エフェクト(萎縮効果)をもたらすだけではなく、『特定秘密法違反の嫌疑』をいったん受ければ一般の民間人(報道人・研究者・運動家等)は非公開の刑事裁判に掛けられてそれに対する有効な防衛策を殆ど取れない恐れがある。

戦前の『治安維持法(1925年,1941年)』がターゲットにしていたのは『国体(天皇制)を変革する左翼思想・自由民主主義・私的所有権の否定やそのための結社・政治運動』だったが、最終的には『政府・軍部の方針に反対するすべての思想・活動』が弾圧対象になっていった。

更に、1932年の5.15事件と1936年の2.26事件によって、法律以上に軍部の右翼勢力(国家社会主義勢力)・天皇主義者・戦争支持の大衆に逆らえば殺される恐れがあるというチリング・エフェクトが働き、大衆(多数派)とマスメディアの戦争支持や天皇制の国体の神聖不可侵の空気の中で『言論・思想信条・表現・学問の自由』は必然的に萎縮させられていった。

現代の特定秘密保護法案は戦前の治安維持法のような『国家・政府・軍部の方針や国体擁護の原則に逆らう人や集団を弾圧するという目的』を持つわけではないため、治安維持法・国民総動員法などと比べれば政府批判の一切の言論や活動を禁圧されるといった危険性まではないだろう。

さすがに立憲主義や自由民主主義との兼ね合いから、自民党案の個別条文の憲法改正がある程度なったとしても、そこまで『一切の政府批判を許さないほどの立法措置やその合憲性の司法判断』を取り付けることはできないと思うが、『日米同盟のブラックボックスな軍事活動・対テロ活動(アメリカ主導の世界秩序や利益配分、紛争介入、テロ防止に日本が今まで以上に自国民の血を流してでも協力しようとする安全保障の方針)』などが、国民に知らされないまま過激になっていく可能性はあるかもしれない。

『国家・政府・自衛隊・公安の方針が何なのか』という肝心な内容が秘密指定される恐れがあるので、そもそも『国家や政府の方針に逆らいようがないというか批判のしようがない安全保障の丸投げのお任せ状態』が作られて、『何が秘密にされていたのかということ』さえ自分が生きている間には明らかにされないかもしれない。

それは形を変えた今以上の『平和ボケ・防衛のブラックボックス化』というか、『与党・閣僚・官僚などへの安全保障分野における全権委任』ではあり、政権を取った与党のあなた達と自衛隊の人たちに安全保障はすべて任せるし、戦死者などがでても国民が不安にならないようにずっと秘密のままにしてもいいから、国民に直接の迷惑や不安、負担をかけないように万事上手く取り計らってくれ(防衛・外交・国家の争いごとの差し迫った問題が見えないようにして報道しないようにしてくれ=上のほうだけで静かに片付けてくれ)という制度という見方もできる。

特定秘密保護法案に熱心な安倍首相や石破幹事長が『国民は秘密について知ろうとしないでくれ、俺たちと自衛隊に任せておけば安全保障分野は大丈夫だ』と言っているのだから、国民は秘密によって知る権利を阻害され民主主義国家の形骸化を押し付けられたとしても、『それならば国民に迷惑や負担を一切かけないようにしてくれ、私たちは非政治的な利益の享受者になっておとなしくしているから、政界のそちら側で秘密を処理して万事うまくやってくれ(余計な国家間・民族間の対立や不満についての報道もしないようにして、大きなミスをすれば速やかに退陣してくれ)』とでも言って煙に巻けばいいのだろうか。

国家安全保障が聖域化されて知ること自体ができない秘密の事項が増え、情報が公開されないので政権の結果責任の検証もできないということは、国民は『国家安全保障分野の落ち度・失敗・被害』については自ら責任を負うことなく、『全権委任した政権がどうにかしろ』とだけ言っておけばいいというのは『お任せ民主主義(内輪の関係者だけに秘密・権限を握らせておいて国民は距離を置いて眺めておく政治)』の気楽なところではあるかもしれない。

だが、そういった政治が望ましいというのは主体的な責任意識を伴う民主主義の崩壊(一部の秘密保持者への全ての責任の押し付けと国民の免責)のような気もするが、『知らない自由・責任を問われない自由・政治家と官僚だけに腹を切らせておく政治』というのは国民にとっては都合が良いものの、最終的には責任を問われなくても実害が降りかかってくる恐れはある。