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アメリカ主導のシリア・アサド政権に対する軍事介入の可能性と米英仏が主張する正義の陰り:2

アサド大統領が居座るシリア政府が、シリア国民に対して『神経ガスの化学兵器(サリン)』を使用した疑いが強まったとして、アメリカやイギリス、フランスの議会から『軍事介入』を求める圧力がかかっている。

当初、シリアへの軍事攻撃に消極的だったオバマ大統領も介入に動かざるを得ない立場に追い込まれているが、『シリアへの軍事介入』は米英仏にとって『米欧主導の世界秩序が生きているという政治的パフォーマンス』以上の意味合いが乏しく、中途半端な攻撃をした後の『シリア+イラン+周辺アラブ国の反応の仕方』によっては中東全体が極めて不安定な状況に叩き込まれることになる。

アメリカ主導(米英仏)のシリア・アサド政権に対する軍事介入の可能性と混迷を深める中東情勢:1

アメリカの軍事制裁に怒ったシリアやイランなどが『アメリカへの代理的な報復』としてイスラエルを狙ったらどうなるか。イスラエルは化学兵器どころか『自国の国家安全保障上の必要性』があれば“予告なしの先制核攻撃”さえ有り得ると主張する過剰防衛の国でもあり、アラブ国から一方的な攻撃を受ければ核を用いなくても『倍返し以上の反撃』をすることはほぼ確実で中東戦争が勃発する。

引き金を引いた手前、アメリカは否応無しに泥沼の中東戦争に参加せざるを得なくなる、下手をすれば財政再建中の米国の国家財政が長期の軍事費を支えきれずに敗退する醜態を晒すだろう。

『米欧の民主主義・自由主義・人権思想・市場経済を掲げる世界秩序』の範疇から、中東・イスラーム圏が完全にすり抜けていく恐怖は、米国を頼りにできずにパニックになったイスラエルが核兵器を使用する恐怖と背中合わせだ。国際情勢が米ソ冷戦以上の緊迫下に置かれてしまいかねないが、よくよく考えると、『日本の9条改正・集団的自衛権の行使』というのは時期が時期であれば、こういった今までの日本の中東外交史の努力を台無しにする対立・制裁に巻き込まれる『ハズレくじ(中東アラブ諸国からの怨恨・怒り)』をひかされるリスクがあるものだ。

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アメリカ主導(米英仏)のシリア・アサド政権に対する軍事介入の可能性と混迷を深める中東情勢:1

アメリカ合衆国は国際軍事戦略の規範として、『大量破壊兵器(ABC兵器)の使用』だけは許さないということがある。如何なる理由があろうとも『核兵器・生物兵器・化学兵器』を戦争(内戦)やテロで使用した国家及び勢力に対しては、即座に厳しい軍事制裁を科す原則を貫くことで、大量破壊兵器の拡散を防いでその使用を不可能なものとしてきた。

無論、長距離弾道ミサイルを保有する反米国家が、核兵器を開発して使用した場合に限っては、アメリカといえども自国が直接攻撃されていない限りは国内に核を撃ち込まれる不安から、『即時の軍事制裁・核の報復攻撃』に踏み切ることは極めて困難だろう。

言い換えれば、アメリカが神経質なまでに化学・生物の大量破壊兵器の使用を絶対に許さない姿勢を示し続けているのは、『人道的な理由・義憤』もあることはあるが、『化学兵器・生物兵器のレベルでさえも使えば大変な報復・制裁を受けることになるぞ(核兵器は言うまでもなく完全な禁忌だ)』との睨みを効かせるためである。

“NPT体制”を崩そうとする『北朝鮮・イランなどの核開発』を強く牽制して、核を保有しても絶対に使うことが許されないことを分からせ、『欧米主導の磐石な世界秩序』が依然として機能していることを立証するために、『アメリカの軍事制裁』は欧米と日本、イスラエルなどから必要とされている側面がある。

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『昭和の戦争』を生んだ“天皇の中空構造と軍部”3:右翼の君民一体と左翼の労働者救済の理想

一般庶民の貧しく惨めな生活を良くするために既存の腐敗堕落した政治体制を転覆させるという目標を掲げた左翼の共産党勢力も、心情的には農民・労働者の味方として右翼と似通った国家社会主義の革命理念を持ってはいたが、左翼は『天皇制・国民国家・私有財産の否定=共和主義と共産主義・ソ連コミンテルン指導下のインターナショナリズム(祖国を持たないプロレタリアートの国際的連帯による暴力革命)』を掲げていたので、1941年の『治安維持法』によって実質的に壊滅させられた。

日本は歴史的に君主を実力で排除する『市民革命』を経験したことがなく、フランス革命に発する『共和主義政体への憧れ』そのものが無かったこともあるが、天皇制を国体の本質として教育されてきた当時の日本人の多くは、『天皇と民衆の一体化(一君万民・君臣一体)』を理想的な国家の有機体的なあり方と見なす部族的な価値観を持っていた。

○『昭和の戦争』を生んだ“国民(庶民)の政治不信”2:血盟団事件(1932年)のテロの正義感・天皇崇拝

大日本帝国憲法において天皇は神聖にして侵すべからずと言われるように、天皇は『絶対無謬の存在(自分自身を持たない中空構造の存在)』であるため、天皇主権の日本国において悪政や誤謬が起こるとすればそれは『天皇自身』に問題があるのではなく、天皇の側近くで間違った政策や考え方を吹き込む『君側の奸(天皇権威を騙る不埒な重臣)』が悪いのだというロジックになり、政治を正すには側近を暗殺しろという『血盟団事件(1932年)・5.15事件(1932年)・2.26事件(1936年)のテロリズム』に流れたのである。

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『昭和の戦争』を生んだ“国民(庶民)の政治不信”2:血盟団事件(1932年)の破滅の哲学と自己犠牲の倫理

テロ事件を起こした右翼青年が共通して述べる目的は『君側の奸を除く』であり、天皇を擁立して讒謗している巨悪の奸臣(現在の政治中枢を牛耳っている元老・首相・閣僚・そこにカネを流す財界人など)に天誅を加えることで、天皇の下に善良な忠臣が再結集して新生日本の再建計画を進めることができるという武勇と忠誠、滅私の物語を信じていた。

戦争を推進しようとする右翼が唱えた『昭和維新』というのは、明治維新の王政復古の原点に帰ることだけが日本を救う道だという信仰を持った集団が、天皇中心主義の革命のために『捨石』になるという国家改造運動であり、こういった自分が死ぬことで国運が好転する(自分の利益や安全を考えないすぐに死んでも良いと自分を捨てることこそが正義なのだ)というメンタリティは後の『神風特攻隊』などにも継承されていく。

○『昭和の戦争』を生んだ“国民(庶民)の経済的困窮”1:右翼の国家改造・左翼の共産革命

とにかく自分の生命と利益を捨てて行動せよという『捨石主義』は、その後の日本軍の行動理念をも間接的に規定していく。『自分が死ぬことこそが国の勝利・繁栄につながる』という道徳観念は一般に共有されるものになったのだが、こういった道徳観念は人類に普遍的なところがあるのかもしれない。

洋の東西を問わず、『自分を大切にする人・お金や豊かさに価値を置く欲望の強い人』よりも『自分を捨てられる人・お金も安楽も要らないというストイックな人』のほうが利他的で道徳的な人間性を持っていると思う庶民はやはり多く、『西郷隆盛信仰』などもそういった無私の印象に根ざしていた。特に日本においてはその道徳観念が、滅私奉公や武士道精神、日本男児の行動理念として自発的な努力と強制的な教育によって植え込まれていったが、当時の右翼の捨石主義(自己犠牲主義)はそういった意味でも道徳的に承認されやすい素地があった。

血盟団を扇動した日蓮宗の過激な僧侶である井上日召や藤井斎空軍大尉(上海事件で戦死)は、自ら進んで破滅に向かう自己犠牲の大馬鹿者が日本を救う(実際には日本を破滅させる軍国主義の口火を切るが)とし、建設・安寧のことなどは後世に任せて、我々はひたすらに不正な既存の権力者・財界人(奸物)を抹殺しさえすれば良いとの短絡的な『破滅の哲学(後の一人一殺のテロ思想)』を吹聴した。強欲な腐敗した政治家ではなく潔癖な命を惜しまない軍人に、天皇の大命を降下させて、政党政治を否定する『超然内閣』を樹立することが国家改造運動を目論む右翼勢力の目標であった。昭和初期の大不況と政治家の相次ぐ疑獄事件がその前提にあった。

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『昭和の戦争』を生んだ“国民(庶民)の経済的困窮”1:右翼の国家改造・左翼の共産革命

関東軍の野心が暴発した“満州事変(柳条湖事件)”から始まった泥沼の『日中戦争』、経済包囲網に耐え兼ねた日本の“真珠湾攻撃”から始まった『日米戦争(太平洋戦争)』、現代の日本の歴史認識と国民アイデンティティに根深い影を落とし続けるこの二つの戦争のそもそもの原因はどこにあったのか。

今から思えば開戦そのものをしない選択もあったように思えるし、『一億玉砕・総動員体制』の狂気に国家全体が駆り立てられる前に戦争のどこかの段階で引き返しておけば良かったようにも思える。だが、当時の日本国民、特に貧しい農民・労働者・兵士の多くは圧倒的に天皇制(皇国思想)の下の戦争を支持する右翼的なメンタリティを持っており、昭和初期の右翼国家社会主義運動(国家改造運動)に突き動かされる形で『政党政治の民主主義』よりも『軍部主導(軍人内閣)の軍国主義』を望んだのである。

日本の戦争を理解するためには、現代とは全く意味合いと影響力が異なる『右翼』と『左翼』と『軍』を知らなければならないが、まず途上国・新興国の多くでは現代のエジプトやミャンマー、トルコなどを見ても分かるように一般大衆のレベルで『軍に対する親近感・信頼感』が『政治家に対する親近感・信頼感』よりも強いということを抑えておかなければならない。

端的に言えば、かつての大日本帝国時代に『昭和恐慌の経済破綻・スタグフレーション・失業』に喘いでいた国民は、大衆の貧窮・飢え・苦境を放置して私腹を肥やしている政治家と財界人の腐敗を憎んでおり、軍部に『政治とカネの結びつき』を断ち切る正義・天誅の役割を強く期待していた。

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映画『風立ちぬ』の感想

総合評価 76点/100点

悲惨な戦争の時代を題材にしたアニメ映画だが、戦闘機『零戦』を開発する主人公の堀越二郎は、徴兵とも戦死とも不況とも飢餓とも無縁な、財閥三菱に勤務するある種の特権階級のエンジニアである。

庵野秀明の無機的な声の質感とも合わさってどことなく『現実感の薄い人物』になっているが、明るく夢を追い続ける堀越二郎の内面では『戦闘機の設計開発』と『戦闘機が用いられる戦争の現場・現実』は結びつくことはない。この飛行機に機関銃さえ搭載しなければ、もっと理想的な軽い機体になるのにといった航空機設計の情熱にひたすら突き動かされており、最後でも『結局私の作った飛行機は一体も戻ってこなかった』という表面的な現実認識で幕を閉じてしまう。

『風立ちぬ』の主題は『それでも生きる』であり、戦争のような苦境にも負けない生命力・頑張りにあるような売り込みなのだが、『風立ちぬ』で描かれるアンニュイな世界は『戦争に関係しているようで関係していない中空的な人物』によって構成されている。

戦争のリアリティを訴える『つらさ・貧しさ・苦しみ・強制に耐える世界観』は感じられず、イタリア人の著名な飛行機設計士ジャンニ・カプローニと夢の中で戯れるほど飛行機にのめり込んでいる秀才の堀越二郎が、ひたすらその飛行機のエンジニアの夢を突き進んで、『戦争の現実』とは別に『自分のワクワクする夢』を具体化していくという物語である。

メインのように見える美人薄命な結核を患った里見菜穂子との恋愛にしても、堀越二郎の菜穂子に対する思いに具体的な深みや痛み、愛情が見えにくいために、当時の男女関係のジェンダーを加味しても、『堀越二郎の夢(仕事)の付随物』として美しい菜穂子が存在していて付き合って上げているようにも見えてしまう。

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