恋愛結婚を罪悪視して“石打ち刑”を科す事件。パキスタンやアフガニスタンなどイスラーム圏の一部における女性に対する過度の抑圧

先進国でさえ男女平等、女性の権利・自由の歴史は短く不完全だが、パキスタンやアフガン等の一部地域の『名誉殺人』は女性を家・男の所有物と見なす慣習や男権社会の抑圧、原理主義の狂信が関係か。

恋愛結婚許さず、父親らが石投げ女性を殺す パキスタン

イスラームだけでなくキリスト教やユダヤ教も『男権主義・父性原理の宗教』であり、リベラルな男女平等思想や女性の性的な意思決定とは相性が悪いところがあるが、イスラームはキリスト教のように世俗化してないので、『政教一致・生活規範の拘束力(敬虔さ・保守性)』が『不服従な女性への暴力』に転換する危険性は高い。

女性を『家・男の所有物(財物)のように見なす』というと、現代では女性個人の思想信条・行動の自由を認めない奴隷制度を彷彿させるような暗鬱な観念だが、見方を変えれば『所有する代わりの保護・庇護』が強い家父長制の家族システムの事である。前近代には自由な個人の意識そのものが希薄ではあった。

日本でも『親同士の取り決め婚・姦通罪』があった時代には、さすがに石打ち刑まではないが、『親の意向に不服従な娘』が勘当・絶縁されることはあった。昭和初期までは相互の家格や身上の釣り合いを無視した自由恋愛・恋愛結婚(婚前交渉)に対する差別や禁忌感は強かった。家柄・財産のある家では特に家父長の承認ありき。

イスラーム圏の名誉殺人は、『個人の尊厳原理・男女平等主義・人権保護』を普遍原則とする『外部の自由圏』にいる私たちからは許されない残酷な犯罪であり、当たり前の人・親としての感情を持っていない冷血漢の所業だが、前近代には『個人の生命や権利よりも家・慣習・共同体・秩序を優先する価値観』が支配的ではあった。

個人の生命と自由は何よりも大切なもので、他者の権利・自由を直接に侵害しない限りは何をしても自由だ。自分と親兄弟は家族といえども別の人格と感情、価値観を持った別々の『個人』で、それぞれの『私生活・思想信条』は尊重されるべきだという価値観は、極めて現代的なものでその歴史は浅いといえば浅い。

歴史を振り返れば、現代人の私たちからすれば恐ろしい事だが、人間の大多数は『国・主君・部族・家・親・男の所有物としての処遇や役割』を伝統・慣習や家の名誉、道徳規範として教育されたり強制されたりして受け容れてきたのであり、個人と生活集団は不可分な運命共同体として接着されていた。

個人の自由・権利、男女の平等、生命の大切さ(命のかかわらない問題よりも必ず命のほうが優先される考え)というものは、個人と血族・集団が分離された歴史の先端で普及したものだが、日本でも家の名誉の為の切腹(腹切り)や家長の取り決め婚、個人無視の国民総動員が強制された時代はそう遠い昔の話でもない。

支配と隷属とか、家(親)の所有物化とかいうと聞こえが悪くなるが、その捉え方を『上位者・権威者によって保護されている状態』に変えるならば、より強いものや大きなシステムに守られるために従ったほうが良い(そっちのほうが自由で無力な放置された状態よりも安心できる)という意識を持つ人がいてもおかしくはないのだろう。