土居健郎の『甘えの構造』からの考察:『母(妻)・芸者(娼婦)・妾のマトリックス』と日本文化における男女関係

精神分析医の土居健郎(どいたけお)は、『甘え』の感情を世界の国々にも普遍的に見られる感情だと前置きしながらも、『母子関係の密接さ(父性原理の弱さ)』のある日本において特に強い感情だとした。

土居の語る『甘え』とは、『他者の自分に対する好意や手加減を当てにして振る舞うこと』である。ここでいう他者とは『母親代わりであることを期待する人物の表象』であり、甘えは発達早期の乳幼児期の母子関係の中で『赤ちゃんの微笑・泣き・排泄などに的確に応えてくれた母親の行動』が原型になっている。

従来、日本では恋人・妻を『母親の代理表象』にしてしまって、無償の愛情・献身が継続することを信じていたり、身の回りの世話を焼いてもらったりする男性(亭主関白・マザコン・アダルトチルドレン)が多かったが、その根底にある感情は『甘えられる女性(好意や配慮を無条件で期待できる女性)』を求める欲求であったと言えるだろう。

日本文化と『母性・ママ・おふくろの言葉』は多義的な結びつきやメタファーを持っており、実際の生みの母親だけを指示するものではなく、飲み屋・料理屋の女主人をママと呼んだり、典型的な昔ながらの家庭料理をおふくろの味と呼んだりもする。そこには、男性の社会的・外面的な体裁やプライドを外して接することができる『甘えられる対象・懐かしさ(帰れる場)を味わえる対象としての語感』が織り込まれていると解釈できる。

人権意識と産業経済が発達して農村(大家族)が衰退した先進国の多くでは、晩婚化・出生率の低下などが必然的な傾向として現れ、女性は必ずしも母親になるとは限らなくなったが、この事は『(農業経済段階・イエ制度の)母性神話の解体』であると同時に『女性の個人化(イエ・母性からの解放)』でもあった。

それが現代では更にねじれて、『労働市場での女性の自立(キャリア構築)の大変さ』から『母性神話・家庭の中の居場所へのバックラッシュ』も起こっており、若年世代では、企業社会で競争するキャリアウーマンよりも専業主婦(+短時間労働)に憧れる人の割合が増えたりしている。

また男性も、かつてのような多くの女性と遊びたい(そのための労力・資金を惜しまない)という肉食系や金のことは自分に任せておけという大黒柱系(その代わりの亭主関白系)は減少して、家庭的な優しい真面目(一途)な性質を持つ人が増える一方で、昭和の企業戦士のようにがっつりと企業文化・経済競争に適応できる男性の比率(キャリアを積める安定雇用・家族を扶養できる収入水準)は減っている。

結婚して子供(後継ぎ・労働力)を産むことは、前近代~初期近代の農村社会におけるほとんど不可避な女性の人生設計であり居場所づくりであったが、近代社会が進展して女性の高学歴化や頭脳労働(非肉体労働)の増加が起こってくると、『女性の経済的自立・職業の獲得の可能性』が開けた。

その反動として、いったん企業社会に参加してみると、かつて思われていたほどに魅力的なものではないと感じる女性が多かったり、日本の企業風土が男性中心主義から大きくは変わらなかったという事情もある。

女性の社会参加の促進や男女雇用機会の均等化、一部の女性の管理職・専門職への昇進は、『女性の非経済的なケア役割のジェンダー』を必然的に低下させて、男女の家事・育児の分担などの規範的な観念を生み出した。

それでもなお日本は欧米諸国と比べれば共働きであっても『ケアする女性のジェンダー(女性の男性への生活面での各種の世話焼きと精神的な慰撫)』は強く残っていて、それが一部の欧米人男性の日本人女性に対するオリエンタリズムの源泉になっているとも言われる。

ケアする女性のジェンダーは、日本の甘えの文化を生成維持してきたものでもあるが、江戸期以前の日本では甘えの対象の女性は、二次元的な『母(妻)―芸者(芸妓の娼婦)のマトリックス』を構成していたと考えられている。

長く結婚していると妻を女と見れなくなる(母のようになり性的対象ではなくなる)といった定型的な言説も、『母(妻)―芸者(芸妓の娼婦)のマトリックス』に依拠している。

『母=ウチの特定の男のケア』『芸者(芸妓)=ソトの不特定の男のケア』という二元論は、江戸期~昭和初期の日本における男性中心主義の性倫理とも関係しているが、母(妻)と芸者(芸妓)の中間領域に結婚はしていないが子を設けて長期に扶養してもらえるという『妾』というものがあった。

芸者とか娼婦とかいうと性的なケアばかりをイメージしてしまいがちだが、芸者は『技芸・音楽・舞踊・話術・娯楽を持って男性をケアするプロフェッショナル』であり、現代であればスナックやクラブのママ、話術・愛嬌も合わせて売る女性バーテンダーのような人もこの枠組みに入れることができるかもしれない。

飲み屋のママがいい年をした中年のお客さんを“ちゃん付け”で呼ぶ時には、そのお客さんを擬似的な『子供』のようにして優しくケアしているが、お客さんのほうはママに『子供』として甘えるだけではなく、『男』として性的関心を向けたりもするアンビバレンツな存在になっている。

日本文化では『子供としての甘え』と『男としての性的欲求』との境界線が曖昧になることも多い。飲み屋のママに限らず妻や恋人(彼女)に対しても『子供としての甘え』と『男としての性的欲求』のどちらかを行ったり来たりするような関係を持っていることは珍しくないのである。

婚姻関係にある母(妻)は子を産むが、性行為には消極的であり貞節なイメージを持たれ、昭和初期までの農村でも夫婦間の性的関係は、必要な子どもの数を産めば解消されるのが普通であった。

婚姻関係にない芸者(芸妓)は子を産めないが、性行為には積極的であり淫楽なイメージを持たれ、家のウチの生活では満たされない型の男性の性欲・甘え・承認欲求を満たすような存在として位置づけられていた。

こういったマトリックスやジェンダーは女性にケア役割を押し付けるという男尊女卑的な色彩を持つが、フェミニズムや男女同権運動は『土地(生産手段)・学歴(参入資格)・職業(収入源)』を持たないからこそ女性は男性に仕えなければならない状況に置かれたという考えから、女性の高学歴化・社会進出・職業獲得によって男女同権社会(女性が産むか産まないか、男性をケアするかしないかを選択できる社会)を作ろうとした。

その一方で、近代のロマンティックラブ・イデオロギーと高度経済成長期(男性の安定雇用・所得上昇)によって、男性が外で働いて、女性が男性・子供をケアするという役割分担は、『男権主義(女性の抑圧)』ではなく『愛情・感謝の現れ』と解釈されることも多かった。働いていることの苦労やお金を出していることを恩着せがましく言う夫(父)でない限りは、妻(母)としてのケア役割の受容を拒絶する女性が少なかったということでもあった。

現代の日本の女性は、『母』であると同時に『芸者(芸妓)』であることも求められがちだが、これは近代初期と比べて一夫一婦制の規範が強まったり、芸者(芸妓)と遊べるような経済力を持つ男が減ったりしたことの影響でもあるだろう。

『母としての女性』は『子供としての夫をケアする役割』を担い、『芸者(芸妓)としての女性』は『男性としての夫をケアする役割』を担うことを期待されている。だがさすがに仕事・家事・育児のすべてをこなしながら、『男性のケア・世話』まで求められる女性は、理不尽な納得できない思いに駆られやすいのではないだろうか。