セーレン・キルケゴールが解釈したキリスト教の希望と『死に至る病』:人間中心主義ではない神中心主義の信仰

キリスト教にせよイスラームにせよ、一神教の神というのは『根本的な存在・価値(意味)の原理』の根拠となるものである。

イスラム過激派やイスラム原理主義者は『アラーの名前・コーランの教義』の権威を流用することで、非ムスリムの欧米諸国が主導する『自由民主主義・人権思想の普遍性』をメタレベルで否定して、自らの民間人の殺戮や米兵(非ムスリムの侵入者)の拷問・処刑を正当化しようとする。

こういったテロリストやイスラム過激派の『侵略・殺害行為に対する宗教的な赦免や容認』は、イスラム法学者・指導者からも『異端的』なものとして非難され宗派から破門にされたりもしているが、イスラム国の兵士やテロリストの宗教観は『神中心のもの』という意味では一神教的な思考形態をトレースしているものである。

現代の世俗化された一神教においては、『人間のための宗教』として倫理的・人道的な規範が説かれるが、ローマ帝国衰退後のイスラームの海賊行為・勢力拡張や中世のキリスト教の侵略行為・虐殺が、神の名前の元に行われたように一神教の神が必ずしも人権や生命(特に異教徒の人権・生命)を尊重するかは確定的なことではない。

原理主義は建前として、一神教を『人間が自分たちの共同体や倫理観のために考え出した教え』とは考えないスタンスを取り、『神が人間を殺したり滅ぼしたりする可能性』を否定していない。厳密には、神の従僕である小さく弱き人間(有限の存在者)が『神(無限の存在)の為せる意思・行為』について禁忌・制限を与えることのほうが自己矛盾・教義違反であると考えるのである。

仮に、神は決して人間に対して悪いことをしない、神の教えを守っている人間の生命や自由に制限・危害を加えることなどない(逆に恩恵や奇跡を与えて助けてくれる)と定義するのであれば、『神は人間の意思・利害・前提に従う下位者(プログラムコード的な条件設定)』となってしまう。この現世利益の宗教観というか神の捉え方は、神社・仏閣に『~してください』とお願いする日本人にとっては不自然なものではない。

日本の神道(荒魂)や怨霊信仰(祟りと鎮魂)においても『人間に危害を加える神』はいないわけではないが、基本的に日本の神々は『悩み苦しむ人間の願い事を聞こうとする神々』であり、『人間の善悪観・努力・心がけを受け容れる人間のための神々』でもある。

ドイツのプロテスタント神学者のカール・バルトは、人間の運命的な存在形式である『実存』を『神との無限の質的差違』だと定義したが、それは『神の要求・命令に従うしかない人間像(従属による恩寵の可能性)』を示唆しているのであって、『人間のお願い・要求を聞こうとする神像(人間の努力や意思に共感・評価する神)』は微塵も含まれていない。人間が懸命の努力や鉄の意思を持ったとして、それを原因に神を思う方向に動かせるというのは、人間中心主義(いわゆるリベラル神学)であり神への信仰の違背であるとする。

キリスト教における希望について、実存主義の哲学者であると同時にキリスト教の信仰者でもあったセーレン・キルケゴールは、『可能的なものへの情熱』こそが希望なのだとした。

キルケゴールは『可能的なもの=何が起こるかわからない不安・根拠のない無の深淵』としつつも、希望になり得る可能的なもの(=人の有限性・宿命性を超えた奇跡)としてイエス・キリストの復活を措定した。神(父)とイエス(子)と精霊は『人間的限界を超越した可能的なもの』として絶対的な信仰対象になるというわけだが、キルケゴールの宗教思想の特異なところは『神の永遠性』に対して『人の愛』を代替的なものとして配置したことだった。

永遠性から切り離されている人間は、他者を愛すること、将来への期待を善の可能性として想起することによってのみ、『希望(不安の打ち消し)』を持てるという考え方である。キルケゴールには『不安の概念』という著書があるが、不安はあらゆる事柄が起こり得るという可能性から生まれ、あらゆる事柄が起こり得る可能性を自由にコントロールできる神によって不安は打ち消されるという構造を持つ。

十字架刑(磔刑)に処されようとするイエス・キリストは、窮地から救って欲しいという神への祈りが届かないことに不安を覚えたが、『全知全能で何でもできるはずの神』が何もしないという無為の可能性が更なる不安をかきたて、人間を可能性の深淵(最悪の可能性がランダムに引き当てられるかもしれない思い)へと追い立てていく。これが人間的な思い(人間に都合の良い神の反応予期)を寄せ付けない神中心主義の宗教信仰の要諦でもあるが。

『神(永遠の存在)から見捨てられる』という、小さく弱き人の寄る辺なさを否応無しに高める不安だが、この不安の解消もまた神の子たるイエス・キリストによって為される。それが『磔刑の死(墓場)からの復活』であり、一般的には人類全体の贖罪(原罪の贖い)とされる現象であるが、プロテスタント神学のセーレン・キルケゴールやユルゲン・モルトマンの解釈では、イエス・キリストは『人間の不安の代理(神に捨てられることに対する忍耐・受容)』なのだとされる。

神に捨てられる不安に耐えて、何もしてくれない神の前で十字架上で死んだはずのイエス・キリストが三日目に復活したという聖書の記述は、『人間の不安を神(キリスト)も知り得ているという共同性』の道を開いている。信仰のない者にとって、神から見捨てられることが不安ということの実感は湧きにくいが、端的には『人間存在(自己存在)の究極的な根拠・原因』を欠いたままにただ生きて死ぬことの無意味さや孤絶感の怖さといったものがそこにあると読み解くことができるだろう。

人間存在(自己存在)の究極的な根拠・原因というのは、一神教的な文脈では『ただ有限に生きて死んで無意味に消滅することへの抗い(永遠性という神の属性の残光への憧れ)』でもあり、イエス・キリストの死からの復活を現実として、最後の審判において死体(肉体の死)から人間が蘇るとする魂の不滅性の記述に、『希望』を見出そうとする信仰とも言える。

キルケゴールのいう『希望とは可能的なものへの情熱である』は、『希望とはキリスト的な復活(魂の永遠不滅)への情熱である』と置き換えが可能である。

そして、著書『死に至る病』において、人間は全ての可能性を失うと絶望・死に至るとされるが、その可能性というのは人間の想像力や意思決定によって担保されるものではなく、『神ならば一切の可能性の実現が可能である(だがその実現化のプロセスに人間的な意思・努力は何らの意味を持たず、すべては神の御心のままで結果がどうなるかはわからない)』という神の全能性に頼りながら不安な自分=人間存在を投げ出す(たとえ見捨てられて死んでも耐える・受け容れる)という神中心の信仰によって担保されているのである。