勉強・読書は人を幸福なリア充にするか?:近代社会と勉強の効用と人生の楽しみ方(捉え方)

学校教育では勉強ができるかできないかが一つの重要な自己価値や他者評価の基準になり、勉強ができてテストで高い点数が取れることが、『将来の学歴や職業選択・キャリアパスにおけるベネフィット』として肯定的に受け取られることが多いが、勉強そのものが“人生の主観的な幸福感”とは結びつかないという意見も根強くある。

なぜ勉強しなくてはいけないのか、なぜ本を読んだほうがいいのかという言い古された問いはあるが、結論から言えば『勉強しなくても本を読まなくても生きる上では特段の不都合は生じないことが多い。勉強するにしても受験・就職・資格・職業・研究職などに関連した実学的な勉強だけのほうが(余計な世界観・思想・世界解釈・政治などに触れないほうが)実生活の上では役立つ』ということになる。

それでもなお、生涯にわたって自発的に続けていきたいと思う勉強や読書があるとしたらそれはある種の人間にとって如何なる意味を持つのか、という辺りをあれこれ考えてみたいと思う。

近年ではネットを中心にして『リア充』という概念が生み出されたが、10~20代の学生時代にはリア充であるかどうかによって人生の主観的な幸福感や楽しさが左右されるという人も多いようである。

隣の芝生は青いとか承認欲求の自己顕示というものにも近いが、リア充というのは『自分自身』について語られることよりも、『自分以外の恵まれているように見える他者』について語られる時に頻出するキーワードであり、『私こそがリア充である』という自己言及ができる人は滅多にいない。

リア充であるかどうかと勉強ができるか成績が良いかというのは一般的には殆ど相関しないと考えられている。むしろ一人でコツコツ勉強をしたり本を読んだりして『内面・知識・将来性の充実』を図っているよりも、余り小難しい理屈や思考・人生のプロセスなどは考えずに、仲間や異性と集まってワイワイ騒いだり、恋愛や性、生活を楽しんだりする人(端的には異性や仲間に好かれやすくて外向的にアクティブである人)がリア充に見えるというのが世間一般の感覚である。

勉強というのは畢竟『一人で行う内省的かつロジカルな営み(どちらかというと他者から離れて自分の内的世界の表象・演算に集中する営み)』であるから、試験勉強をみんなで集まってやることはあっても(それでも勉強が得意な人ほど他人と一緒に勉強する効果がないと感じるだろうが)、勉強をしている人を『楽しそうにしている羨ましいリア充』と認識する人は一般的には余りいない。

勉強を何らかの手段としてしか捉えられない時、『勉強はしないで済むならしたくないもの』に過ぎず、特に学生段階の勉強というのは入試や定期試験のために、仕方なくやっている人も結構な割合でいるからである。大人になっても『何かに役立つ実用的なメリットがある勉強・読書』以外は一切しないというサラリーパーソンは少なくない。

10代くらいの若い年齢では、『本・知識(思考)』よりも『人・異性』と向き合っている人のほうが何となく人生をエンジョイしているように見える。内向する知的な魅力(人格の練磨)もあるとはいえ、『外見的な美貌やファッション・他者を楽しませる話術・外向的な行動力・遊び方の上手さ』というのは分かりやすく人を引き付けるし、いわゆるスクールカーストと呼ばれる学校内の力関係の序列でも(厳密には企業内・ビジネスにおける政治的調整においてもだが)勉強よりは対人能力のほうが優位に立つだろう。

恋愛でモテるモテないの話になると勉強や読書、職業キャリアの営みそのものがダイレクトに影響することは(よほど知的趣味・読書履歴などで共鳴するような相手か結婚の経済的条件などは別として)殆どないし、勉強・読書がからっきしダメで話題・人格構造に知的な深みがなくても、外見や明るい雰囲気、情熱と誠実、遊びの上手さ、無難な話題などで人に好かれる魅力は十分に醸成できるものである。

勉強を経済活動や人間関係(恋愛・交遊)における何らかのメリットを得る試みと捉えるならば、大半の人はその投資に対する効果を十分だと思うほどに得ることは難しい。

それどころか、中途半端な勉強や知識の蓄積は反対に『自分はこれだけ真面目にやったのに他の人よりも報われない・何も考えていないように見える単純な人が羨ましい・物事を難しく考えすぎて何をやってもシンプルに楽しめないし選べない』という自虐的かつ他罰的な自己評価の弊害をもたらすだけだろう。

これをネットスラングでは『真面目系バカ』と呼ぶようだ。真面目系バカというのは『禁欲的な真面目な生き方の報酬』を他人や社会が与えてくれるのが当然のものと考える世界観(根拠のない一方的な因果律の設定条件)に覆われた人のことであり、近代的な学歴社会や企業文化の中ではそれほど珍しい類型ではない。

近代社会の学歴主義(利己的な勉強の蓄積)とその挫折(大卒のコモディティ化・高学歴ワーキングプア)に結びつく形で、奇妙な自尊心のねじれや社会・他者に対するいじけ(不公平という感覚)を生み出すのが真面目系バカといわれるものだろう。

やりたいことを我慢して頑張ってきたのに報われないのは、世の中の仕組みや他人の評価・気持ちのほうがおかしいという『報酬を当てにした努力観・決められたルールで動くのが当たり前とする社会観』がそこには横たわっているがそれらは現実的なものではないため、実際にはそれほどには報われないものである。

自分がやりたいことを我慢して勉強なり作業なりを黙々と頑張ることは、『自分の将来の利益』のために現在の即時的な欲求の充足を先延ばししているか、そういった蓄積の効果がないと現在の欲求充足が難しいか将来困るのではないかと心配しているだけだからだ。

つまり、勉強・作業そのものは『他者に利益や喜びをもたらす利他的行為(互酬行為)』ではないという当たり前の動機づけ(自分の将来利益の見込みを当てにしているだけ)を見失っているので独りよがりとなり、自虐的な悲観主義によって生きがいを失う恐れもある。

基本的に、他人は自分(わたし)がやりたいことを我慢して勉強していようが作業していようが、知ったことではないという冷厳な現実が先にある。

禁欲的な思いと共に行っている勉強・作業が『学歴社会・企業社会(職業キャリア・資格制度)の制度的な仕組みの上でのベネフィット』をもたらすかどうかは十分に予測できず、勉強ができて学歴があっても『経済的・対人関係的(エロス的)には恵まれない可能性』は低いものではない。勉強や努力の結果としての報酬を当たり前のものとして意識し過ぎていれば、世の中や他者の反応を逆恨みするようなひねくれた人間性に落ち込む危険がある。

他人がそういったベネフィットを対人的な魅力として承認するかもまた分からないし、『禁欲的に努力する時間コスト』を別の享楽的な活動に使っていても大してマイナスにならないことだって実際には多いからである。

人生は不公平・不条理なものという実感の多くは、広義の真面目系バカの考え方やアリとキリギリスの教条的な教訓に由来する部分もあるが、これからぼちぼち語っていきたいのは『勉強・読書とは本来、将来の利益や仕事、報酬、優位性とは何ら関係がない。だが、その本質を把持することができれば、人生を謳歌できる世界認識の揺らがぬ条件が整うこともある』ということなのだ。

現実問題として、世の中の大人のかなりの割合の人は、殆ど役に立たない種類の勉強はしなくなり(あるいは元々人生においてそれほど差し迫った勉強・研究を全くしてきていないか)本も読まなくなるわけだが、だからといって『勉強の総量と知識の蓄積・読書量と興味関心の領域の広さや深さ』がその人にとっての幸福感や人間関係(異性関係)に、抜き差しならぬ悪影響を与えて悩んでいるという話は聞かれない。

本を読む人が幸福、本を読まない人が不幸だとは、経験的にも直感的にもとても言えない。ここでは読む本のジャンルや種類は細かく問わないが、ある種の哲学・思想、世界認識、人間観・宇宙観・生命観、社会考察・政治分析といったものにどこかで関連するような『物語・哲学・科学』といったものを大雑把に想定しておこう。知識や認識、洞察によって、心が揺り動かされるような読書、メタレベルから世界と人間の見取り図を得られるような読書といっても良い。

中途半端に本を読む人、勉強や読書に何らかのメリットのようなものを求める人はむしろ、『知識・情報・物語・理想・社会的利害の終わりなき網目』に捉えられるだけで、現実と読書との効果的なリレーションの構築に失敗して内向的に悩むだけだろう。