勉強・読書の本質的な意味とは何なのか?:知覚的な現象世界と言語的な普遍世界を生きる人の希望と絶望

アメリカでは成人の約8割が、一年間に一冊も本(電子ブック含む)を読まないというニュースを目にしたが、日本人でも実際にライトな雑誌以外の本・電子ブックを買って読む成人の層というのは、娯楽的な小説を含めてもなお多数派ではない。

一部の読書家が偏って購入していて、『長文(漢字の多い文章)を読むだけで頭が痛くなる・何が面白くて本なんか読むのか分からない』という人もかなりの割合でいる(ネットでも数千文字程度の文章が長すぎて読めない、文意が掴めなくなるという人は多い)。

勉強・読書は人を幸福なリア充にするか?:近代社会と勉強の効用と人生の面白さ

子供時代から読書習慣がなかったことも推測されるが、恐らく生涯を通して教養趣味・知的娯楽としての本(電子ブック)に触れることがないままということになる。だが、実生活や経済面ではそれは致命的な知識・体験の欠落では全くない、読まなくても生きたり働いたり関係を持ったりする分には不都合がないからである。

『時間がない(他に優先すべき仕事・家庭の用事などがある)』というのが本を読まない第一の理由だが、大半の人にとっては『読書よりも面白い活動や遊びがある』からである。しかし、総体的にはそれでも人生や恋愛、家庭運営などにおける致命的痛手を受けるわけではないし、逆にそれなりに読書をしている人よりも『内面の鬱屈・悲観・虚無感』が少なかったり、『実際的な生活面の行動』にはむしろ身軽に動けて意欲的・適応的だったりもする。

それなりに勉強をしてきた人(専門職やエリート職に就くなど職業上のベネフィットもある程度ある人)や読書をしてきた人の中にも、『自分はそれほど幸せではない・世の中はそんなに面白くない・他人のほうが人生を上手くやっている』という不遇をかこっている人は少なからずいる。

こういった人は、『シンプルな人生設計・分かりやすい欲求のストレートな充足(頭の中であれこれ考えすぎない単純な行動原理)』を隣の青い芝生のように見ていたりするが、『複雑な思考・知識の体系に対する執着』と『現実の快的な体験・関係性・金銭における対価』との間の葛藤によって容易には自分の生き方、考え方を変えることはできないのだ。

人間の幸福の典型的な類型として、難しいことをあれこれ考えないシンプルさ、知識・情報に振り回されない単純さを上げる人は少なくないが、それが自分にはできないといって嘆く人(ある種の自己の特別視と情報・知識の過剰に悩む人)もまた少なくないのである。

美味しいものを食べる、好きな相手と付き合ったり時間を過ごす、やりたい仕事を選択しやすくなる、欲しいモノやサービスを買う、レジャーや娯楽を楽しむ、好きなファッションをする、人並みのライフイベントを経験しながら生活する、世間体(みんなから外れていないの承認欲求)を満たすといった『シンプルな行動原理』にどれだけ動機づけられているかによって、その人の生き方や考え方、他者との付き合い方は大きく変わる。

だが、勉強や読書というのは一面的にはシンプルな行動原理とは逆行する効果をもたらすことのほうが多い。知識や理屈で現象世界(感覚で捉えて他者と交流する世界)をどうこうしようとする時、『観念と現実(他者の反応)のギャップ』によって、シンプルな行動原理から遠ざかってしまう。一般に『現実(リアル)』とされる現象世界は、理論・理屈の通りには動かないからである。

表層的な勉強・読書(勉強・読書と現象世界との結びつきに期待する下心)の深みにはまればはまるほどに、『他者の行動原理・人間の限界・共通理解(世間的な常識)との溝』が深くなりやすい傾向もある。

勉強や読書に意味はあるのかという表題の問いかけに立ち戻るならば、その本質は『その勉強・読書が将来的に何かの役に立つとか誰か(社会)に認められるとかいうこと』よりも、『言語(記号)が構築する普遍的世界と自己の位置づけ』を持てるか持てないかということにあるのではないかと考える。そうでなければ、目的を達成した時に勉強や読書も終わりの時を迎えるだろう。

自発的かつ必然的なライフワークとしての勉強・読書があるとするならば、『移り変わる有限の現象世界(わたしもあなたもいつかは死なざるを得ない知覚・生命・感情が中心の世界)』と『積み上げる無限の普遍世界(わたしやあなたといった個体を超えた言語とその認識主体が存在する限りにおいて終わらない言語・論理・意思伝達が中心の世界)』を架橋して統合したり分節したりする営為となるだろう。

『移り変わる有限の現象世界』だけで生きるならば、言語や思考の力は極めて弱いものとなり、そこでは“知覚(感覚)・運動・社会(地位)・関係(愛情)・金銭(利得)・物”を巡る成功と失敗、勝ちと負け、人間関係(情緒のやり取り)に基づいた二元論的な幸福感を得られるかどうかだけが、人生の価値のほぼ全てになりやすい。

故に『移り変わる有限の現象世界』だけで生きることのリスクがあるとすれば、社会経済的状況や他者との関係性に左右されない『普遍的に持続する内的アイデンティティ・言語的世界観の核心』がないということだろう。

社会や経済、人間関係における挫折や別離がそのまま、自己の存在価値そのものの喪失・絶望につながる恐れがあり、自己を保つ最後の砦が『自らの内部・普遍的な言語』ではなく『状況が変化し得る社会・他者』に求められやすくなる。

勉強・読書の持つ意味というのは突き詰めれば、『自己の内部に世界と人間の普遍的な見取り図と持続的な思考力を持ち、主体的な生に責任と納得を持てる(責任転嫁せずに投げ出したり腐ったりしない)ということ』に他ならない。

それは裏返せば社会で上手くいかないことや状況が悪化すること、他者との関わりで傷つくことがあっても、『社会・他者を恨まないこと(自分が変わったり認識を変えることで解決を導くこと)』につながり、自己の自由と他者の自由との黄金則に従った人生の王道を歩めるということを意味する。

それは勉強や読書が確率的にもたらすことのある実際的なベネフィットよりも人生全体では価値のあることだろう。なぜなら、現象世界でどのような不幸や不遇、裏切りがあっても、『世界・人間・社会の一般的原理を思考して伝達する主体としての自分+思考の軌跡や道具としての言語』を完全に失ってしまうことは原理的に有り得ないからである。

認知症や脳損傷、知的能力の低下、死によって思考する言語的主体は確かに失われるが、失った時には既に言語を理解する自分自身がいないので、『私』は他者の言語と意思疎通によって診断されたり評価されたりする存在に過ぎないとも言える。
現象世界では得るものもあれば失うものもある(楽しかったり苦しかったりの波がある)が、普遍世界(言語の象徴界)では基本的に得るものが増えていく、深められていくというベクトル(精神的な財・内面的な力)が積み重なる。

勉強・読書というのは『知覚的(アフェクティブ)な現象世界と言語的(ロジカル)な普遍世界との架橋と分節の調節機構』のようなものだが、自分にとっての人生や世界、他者、社会の俯瞰的な見取り図と納得の構造(動機づけの強弱)を与えてくれる。

ユニークな言語哲学を展開したルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、言語を『人間にとっての世界の境界線』や『言語ゲーム』といったキーワードで捉えたが、世界の境界線としての言語は『言語による世界の写像化と全的な包摂(時間軸を超える世界の見取り図)』として機能し、言語ゲームとしての言語は『他者との共通認識・感情交流(他人とふれあう日常言語や個人の生の道具)』として機能するということになる。

言語の揺るぎなき本質の一つは、『人間それぞれの内面に世界を構築する』ということだが、ハイデガー哲学の影響を受けた言語哲学者のハンス・ゲオルク・ガダマーは『人間が世界を持つという事実は言語に依拠する(人間にとっての世界の経験は、他の存在者・動物の世界の経験とは根本的に異なる、言語的な経験であるという意味において)』という命題を提示した。

『言語(記号)』を『行動』と比較して心のこもっていない表層的な道具だとするヒューマニズムの見方は強いし、それは知覚や感情、社会的位置づけによって幸不幸を感じる人間(常に流動する現象的主体)にとっての一面の真実なのだが、人間は世界と他者との関係性において『言語的主体』である宿命を免れ得ない側面も持つ。

勉強・読書に本質的な意味はあるのか(特に生活や仕事、経済、人間関係に直接に役に立たない内容のものにおいて)という問いかけに対しては、『言語的主体としての自覚』より意味の体感と生の苦悩の軽減が始まる(中途半端であれば余計に苦しむ)としか答えようがない部分もあるが、それは厳密な哲学や精密な科学というよりは『自分にとっての真理・納得のロジック(言語・論理)』を楽しく探し求めるプロセス(旅)のようなものだろう。

現象界(知覚界)と言語界(象徴界)のどちらに重点を置くかのバランス感覚が『生活の知恵』とも呼ばれるものであるが、『意識・言語・身体とその外部にあるもの(他者・モノの反応)』をテキスト(文章)や知覚的な経験・記憶・関係性を通して何度も解釈し直していくことが人生であり、その結果だけではなくプロセスとロジックに目を向けることで、人はより普遍的・持続的な主体(内的な財産・世界の理解を積み上げていく主体)としての強度を強めることができるのかもしれない。