なぜ日本をはじめ現代の先進国では子供が減るのか?“子供のための親(子育てのハードルの高さ)”と少子化傾向

少子化の根本要因は、何が何でも子供を持つことこそが人生の最高の価値である(そのためには長時間労働だろうが仕事と家事育児の掛け持ちだろうが自分のための時間・楽しみは投げ捨てて厭わない)といった判断や生き方が早い時期からできる個人とそういった判断の下地となるシンプルな環境そのものが、現代社会から急速に激減しているということだろう。

結婚してからの計画的な妊娠出産であろうが、結婚後の運に任せた偶発的な妊娠であろうが、できちゃった結婚につながる不意の妊娠であろうが、子供ができてしまえば中絶しない限りは、大半の人が自分のほぼ全力を注いで最低でも約18~22年程度(高校・大学を卒業するくらいまでの期間)は子育てのために奔走しなければならない。

■子ども数、過去最低に 34年連続減、増加は東京都のみ

大半の人は(途中で離婚・失踪などで無責任に姿を晦ましたり虐待・事件などで一緒に暮らせなくなったりする人も確率的にはいるにしても少数派である)できてしまえば自分にできるだけのことをして子育てをする他はないと腹を括るだろう。

だが、現代人は避妊の徹底や結婚(子育て)の相手選びを含め、相当に注意深くて色々な条件をあれこれ想定して人生設計や子供の人生を予測し考慮するので、まだ十分な準備や覚悟ができていない『望まない妊娠(あやふやな気持ち・環境の中でできてしまった妊娠)』そのものが減り続けている。

産んでしまえば何とかなるという楽観主義を持ちづらく、自分と相手の雇用や所得、生活状況(それを向上させる意思・能力のレベル)の見通し、国の財政・社会保障・人口動態の見通しなどに合理的な人であればあるほど囚われてしまい、中途半端な状況では産めないからもっと環境を整えようとして時間ばかりが過ぎることにもなりやすい。

超高齢化社会の人口動態が、出産可能年齢にある女性人口が既に落ち込んでしまった人口モメンタムと賦課方式の社会保障制度の制度設計を前提にする限り改善を見込めないということも、『少子化関連のニュース』が出る度に強化されてしまう出産抑制要因の一つである。

『いつかはできれば子供が欲しい・できれば後一人か二人は子供が欲しい』という意見はあっても、初めから子供のいる家庭が夢の人(夫婦が子供好きで初めから子供を作る予定で収入面もしっかりしている状態で結婚した人)や不妊治療をしている人を除いて、『何が何でも子供が欲しい(そのために多くの犠牲を払うことも覚悟している)という若い世代の人』の比率が減っている。

現状の少子高齢化を改善させるためには、20歳以上・40歳以下のすべての男女が結婚して2人ずつ子供を産んでいるという『皆婚・皆出産』の前提を置いてもまだ足りないというのは非常に厳しすぎる現実であり、『皆婚・3人以上の皆出産に近い水準』というのはどのような政策を用いてもほぼ実現できない水準(相手の選り好みや条件考慮をする各人の権利がある以上は皆婚さえほぼ不可能である)である。

30代が近くなったり高齢出産が迫ってきたりして、『やっぱり子供が欲しい・子供がいなかったら後で後悔したり寂しくなるかも』という生物学的な制約の意識化で、子供が欲しい願望が非常に強くなる人はいるが、10~20代半ばくらいの年齢層では『漠然とした家族・子供への希望』を持っている人はいても、『そのために自分の時間・労力のすべてを注いでも良いという覚悟と目的意識』を持って恋愛の相手探しや子供作りを早くからしている人(結婚や出産などそれらもしたいが他のこともあれこれしたいという人は多いが結婚も出産も全力を出し切らなくて良い片手間の余力でできるような簡単なものではない)がかなり少数派になってしまっている。

長時間労働やストレスなどの労働環境が厳しい、給与水準が家族を持つには低すぎる、政策的な出産・育児・教育の支援が不十分である、社会が子供の遊びや声に対して不寛容である、若年層の恋愛・結婚の活動意欲が低迷しているなども、確かに少子化を促進している要因ではあるのだが、『子供が何が何でも欲しいという欲求とそのためのコスト支払いの覚悟の低下(子供を持つことの経済や人生のメリットの低下)』や『子供の幸福のための出産・育児の意識の強化(雇用の不安定や所得の低さ、政治経済の要因など子供が幸せになれそうにないネガティブな部分へのセンシティブな反応)』が根本にある。

必死に自分のすべてを投げ打つような形で、子供のためだけに頑張れば一人か二人は子供を育てられる人は少なからずいるはずだが、そこまで一つの育児だけに対する献身の覚悟を産まれる前の段階から『自分の意思・希望』として固めることができないケースが多い。

『中途半端なやる気や責任感で子供を持つことは、逆に社会の迷惑や虐待事件(ネグレクト)の発生につながる恐れがあるし、いったん産まれれば言い訳や逃げは許されない』といった妊娠出産への消極性へと退行してしまうこともあるが、これらは現代人のモラトリアムや万事における余力確保の志向性(ブラック企業や戦争・運命共同体のような自分の全てを要求するものへの忌避感)ともつながっているだろう。

もう一つは、少子化、少子化とマスメディアや世論が騒ぎ立てる割には、『子供が好きで子供が幸せになって欲しくて少子化を憂えている人の姿』が見えにくく、『国家財政・消費経済・労働供給量・社会保障制度(税源)の危機』を回避するためだけに『将来の労働者・納税者になってくれる子供の大幅な増員』を若い人たちに求めているような歪で利己的な中高年層の既得権の構造が透けて見える不快感である。

子供の遊んで騒ぐ声がうるさいから保育園・幼稚園を作って欲しくない、今の若い親たちは昔の人より子供の躾ができていなくて無責任じゃないか(客観的・統計的には間違った認識である可能性のほうが高いが)という人の意見がメディアで取り上げられたりもするが、リアルタイムや直近の期間に子育てをしていない層の一定の割合が『子供の存在や特徴(うるささ・わがままさ・思い通りにはならない傾向・失敗や間違いも多くしてしまう傾向)』などに対してかなり非寛容な態度を示し始めている。

できれば『子供時代のない初めからしっかりした子供(短期で社会や自分の役に立ってくれる労働者への成長)』であって欲しいというような願望も感じられるが、過去も現代も子供を『今生きている世代のための労働力・納税力』として求めてしまうという動物としての本性もあるのだが、現代では『自分の子供(これからの子供)は構造的な労働力・納税者としてだけの生に埋没して欲しくない』という思いもあるので、余計に子供を持つことに対する感情・思いが複雑にねじり上げられてしまっているのだ。

自分の子供は社会・財政・他者の道具(従属して使われる側)にはなって欲しくない、自分のオリジナルな人生を思いっきり自由に楽しく生き抜いて欲しいというのは、親としての当たり前の感情のようにも思えるし、現代の分かりやすい現象になぞらえれば、誰ともかぶらない個性的な名前、過去の平凡な人名(漢字の読み方)では満足できない思いが込められた『キラキラネーム』というのも、『子供の独自性・特殊性・人生の謳歌』への強い期待と愛情の現れとして解釈できるかもしれない。

だが、実際にはここまで親が『子供のために教育・経済・心理などの面で全面的に奉仕する育て方』は人類史上かつてなかったわけで、現代の親は子供をペット化していると揶揄されたりすることもあるが、実質的には我が子に対する親がまるで私利私欲を捨て去った聖人のようであることを求められ(そうできない親、子供に何らかを頼ろうとする親は道徳的に非難されやすくなり)、あるいは自ら自発的に子供のためにお金も労力も全てを捧げることを良しとするように価値観が変わってきているのである。

ここには、親(自分)が原因になって子供に不自由・不本意な思いをさせてはならない、親は子供に迷惑をかけないようにきちんと老後まで自分の人生を設計しなければならないという団塊世代辺りから連綿と世代間継承されてきた『子供中心の家族の価値観』がある。

だが、原則として子供から親は一切の見返りを求めずに最低でも大学くらいは出せるくらいの応援や環境整備をしなければならないという規範感覚は、かなり強烈な少子化要因(自分たちにそこまでできる自信や力がないからやめておこう)となっており、中卒者も多かった戦後から1960年代くらいまでと比較しても『子育てに求められるハードル』がかなり高くなってしまっている。

子供がたくさん生まれていた時代には逆に、『親のために子供のほうが早い時期から働いたりお金を送ったりすることが当たり前とする孝行の道徳(子供が多ければ多いほど家が豊かになったり親が楽になったりする子供の活用の正当化)』があったので、子供を産むことは自己犠牲や経済支出の覚悟というよりは、『将来の不安・困窮に対する投資や保険』といった現金な側面も無視できないほどに強かったのである。

そういった側面を考えれば、子供を産めば産むほど貧困になりやすく見返りも期待してはならない道徳が強い現代では、かつてと同じような感覚で『子供を持つか持たないかの判断基準とその損得にまつわる心理(現代人のほうが子供に対する愛情や負担の覚悟がない自己中心的な人ばかりになったというような決めつけ)』を考えることはとてもできないだろう。

大学に行くのは一部の金持ちや秀才だけという時代にあった、『子供の人生がどうなるか幸せになるか不幸になるかは、食わせてやった後は本人次第(親のせいではないし、庶民はつまらなくても分相応に生きていくしかない。食わせてもらっただけで感謝して孝行しなければならない)』という子育てのハードルをできるだけ低くする考え方ができる人も現代人では大幅に減ってしまっている。

子供ができるだけ不利や惨めさを感じないで済む各種条件の整備をじっくり待つような考え方が強い限り、先進国の成熟経済の成長鈍麻と格差拡大を考えれば、少子化解消の道筋は見えにくいし、こういった『子供のための親の最大限の見返りを求めない献身』といった意識そのものを大きく変えること(=子供を親の将来のために多少利用するくらいの気持ちがあっても良いじゃないか)もひとりひとりの自意識が肥大した現代では簡単なことではない。

良くも悪くも、子供が幸福になれそうな確率の考慮(子供のための親の生)や個人の人生の選択肢・楽しみの拡大などによって、『自然的・動物的な生殖の反復の摂理』から現代人の脳の機能やライフスタイル、価値判断のプライオリティーがかなりズレてきてしまっているとは言えるのだろう。

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