大卒前提の子供の教育費高騰は、『非機能的な孔雀の羽根』の華美化のようなものか。

希望すれば(どこの大学でも良いのであれば)ほぼ全員が大学に進学できる『大学全入時代』と揶揄される現代では、『大学に行くことの利点』よりも『大学に行かなかったことの特殊な事情・要因』に注目されて不利益を受ける恐れが高まってしまった。

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つまり、それほど頭が良い人でなくても(平均レベルかそれより下の学力の人でも)それなりに学校に適応して勉強していれば、どこかの大学には入れたはずなのに行かなかったのはなぜなのかという痛くない腹を探られやすいという心情的ハンディがある。単なる形式的な学歴の資格要件というのは『本人の優秀性・有能性』を評価するものではなく『本人の意欲・家庭環境(経済状況)・交遊関係の特殊的な問題点』を勘ぐるような基準を背景に持つ文化階層主義的な趣きを持つ。

例えば、パチンコ屋のホール作業であるとか営業事務・警備員・工場作業であるとか、その仕事内容そのものに学力・知性の高低が何ら影響しないと思われる仕事の募集であっても、応募資格に『高卒以上』と書かれていて中卒者の応募を未然に排除しているケースは少なからずある。中卒者でも真面目に働く意欲があって素直に学ぼうとする性格であれば、こういった仕事への職業適性は相当あるはずなのだが、なぜか企業の多くは門前払いを喰らわす。

それは現代では高校に行くのは当たり前という価値観が極めて強いために、『敢えて高校に行かなかった(行けなかった)理由』を様々に推測するためで、高卒者のほうがより無難な採用に感じられるので、『人物評価のコスト』を節約したいからである。

中卒者と高卒者の双方を比較して、その具体的な人間性までは到底面接で評価しきれないが、高卒者のほうが『社会の平均的な価値観・常識』に沿った性格・生き方である蓋然性が高いと推測すること(9割以上が高卒以上でありそれに合わせているから)で、そこに足切りの意味での資格要件が設定される。高卒者の割合が5割を切っていた1960年代頃までは、それなりの規模の一般企業でも学歴による足切りはなく、中卒ですぐに都市部に出て就職し、それなりの昇進ができた者も少なからずいる。

応募資格が大卒であるか高卒であるか中卒であるかは、その学校の難易度や本人の実際の知性・実務・応答能力を精査する必要のない形式要件では、『大学に進学しなかった(できなかった)家庭環境・交友関係・本人の考え方や状況不適応』のほうがスクリーニングされているとさえ言えるかもしれない。

1980年代くらいまでは勉強が苦手でもとりあえず高校くらいは出ておけ(出ておかないと仕事がない)と言われていたが、1990年代からゼロ年代にかけては大学くらいは出ておかないとまともな仕事がない(ホワイトカラー・専門職で昇進可能性のあるサラリーマンとしての雇用がない)という具合に、最低限度の教育履歴のラインに関する国民の意識が引き上げられた。

国民の意識の変化や学歴上昇と共に、専門職の受験資格としてその分野の学部卒(学士)の資格が求められるようになったり(大学の当該授業の単位がない高卒・中卒の人が一発試験の合格だけでは資格を取得できないようにしたり)、法科大学院のロースクールや薬剤師養成の六年制化、教員養成の六年制化(教職大学院の義務づけ)の検討のように、『専門職に就くための教育期間・教育費用』が軒並み引き上げられる傾向にある。

教育行政の資格・免許制度の改革が出しているメッセージは、最低でも大学には行っておかないと安定した職業的威信のある専門職としては就職できません(資格試験の受験資格そのものを与えないですよ)というものであるが、こういったメッセージは大卒(新卒者)しか採用しない待遇の良い大手企業にも共通のものである。

こういったいわゆる安定的・権威的な見栄えの良い雇用のスクリーニングとして大学卒業資格は機能しているため、大半の親はそのスタートラインの不利(競争枠に参加できないハンデ)だけは排除してあげたいとして、できるだけ大学へ進学させたいと考えるのだが、こういった動機づけは『職業選択の基準』が曖昧であればあるほど、高学歴であってもそれが実際の仕事・収入に結びつかないというリスクを織り込むことになる。

それは単純に考えれば、勉強ができればできるほど、いわゆるサラリーマンとしての適応力が高いわけではないということに基づくが、高学歴ワーキングプアや一流企業の早期退職者などは、『勉強面での能力や意欲の高さ、テストの得意さ』だけでは、サラリーマンや職業人としての成功・高所得を保障できなくなった一つの事例でもある。

無論、高学歴者の大半はそれまでの勉強の努力や時間を、『職業的・権威的・金銭的なリターン』として受け取りたいと考えているので、多少嫌なことやストレスになることがあっても就職した企業・官庁・学校・各種団体などを簡単には辞めないものだが、本質的にサラリーマンの労働条件や職場環境に適応しづらい人は、ある程度の所得の高さがあっても仕事そのもののやり甲斐や人生の楽しみではリターンを得られない恐れが出てくる。

学歴と合わせて『職業選択の方向性・専門性』が定まっていれば(あるいは医学部・薬学部などのように学部で学ぶ内容と職業の結びつきが一義的で強ければ)の、教育投資のコストや時間は職業活動の実利を伴うリターンをもたらしやすいが、漠然と偏差値に見合った大学を出てどこか良さそうな会社に就職しようという適当なビジョンだけだと『勉強能力のレベル』と『職業・仕事の満足度』の不一致の失望は大きくなりやすい。

記憶力・論理力が高くてペーパーの勉強ができたり、頭の回転が速くて情報処理や会話能力が高ければ、非学歴の職業分野や資格試験、人間関係でも柔軟に方向転換しやすい(挫折した方向性とは別の方向性を見出しやすい)などの利点は別途あることはある。

現代の教育費高騰の無駄と問題点は、『各職業に求められる能力・資質』と『形式的な大卒資格の内容(専門家的・管理者的な素養・基盤と無関係な内容)』とがほとんど何の相関もなくなってきていることであり、教育費のいたずらな高騰や子供に与えるべき形式的教育レベルの上昇が、二人以上の子供を育てにくいという間接的な少子化要因になっていることである。

大卒のスクリーニングが『サラリーマンとしての最低限度の適性(知識・学力・意欲のメルクマール)』にあるのであれば、そのメルクマール達成のためにみんながみんな、勉強や学問がさほど好きでも得意でもなくてもとりあえずどこかの大学に行くというのは、無駄な制度設計というか『標準以下ではない事を見かけ(履歴書上の学校歴)で訴えるだけの孔雀の羽根』かもしれない。

高卒後の進路選択については、エリート候補養成を目的とする学力上位者が目指す少数の“大学(高等教育機関)”と仕事に直接役立つ実務的な職業教育(専門特化の職能訓練・資格取得)を目的とする多数の“専門実務学校”に分類したほうが学校制度全体としての効率性や経済活動・雇用改善との親和性は高まるだろう。

しかし、(職業・経済とは相関の薄い)人文系のリベラルアーツの教養・文化や知的世界に関わる『無数の大学の教職者や事務員の雇用』の問題がそこには関係しているし、何ができるか(学校で何を学んできたか)を問うジョブ型雇用ではない『企業の新卒一括採用(社内教育前提の人材確保)の慣行』との兼ね合いもあるので短期的には難しい。

また、仕事やお金に直接的に結びつきにくいとしても、大学の教養課程に含まれるような人文的・教養的・雑学的なリベラルアーツを一般の人たちから遠ざけても良いのか否か(好きな人は大学に行っても行かなくても自発的な読書や学習、議論でその種の知識は得られるが)。

いわゆる広義の知的好奇心や公共的関心、文化的趣味、政治参加意識を持つ市民・国民の育成(公権力や企業に対して一方的に従属せずに必要に応じて批判的な視点を持ち、そのための理論武装・歴史解釈の素養を持つ人たちの形成)という観点では、職業実務や資格取得の教育だけでは賄えない『文学・歴史学・哲学・政治学・社会学・数理学などの基礎の基礎の共有知識』も大切なものではあるので、一概に大学教育の雑駁とした文化教養趣味の講義が無駄とも言えない。

近代人とは、今日よりも明日はもっと良くなるという進歩主義的な価値観に支えられた人間であり、それが資本主義の経済成長の持続や労働者・生産手段の生産性向上という至上命題につながり、子孫の世代が自分たちの世代よりももっと賢くて豊かで幸せになるという“夢”を支えてきた。現代の子供世代の教育費が高騰して、最低レベルと世間が認識する学歴水準が上昇しているのは、自分たち親の世代より子の世代が豊かになって欲しい、悪くても貧しく惨めにはなって欲しくないと願う“資本主義的な夢(永遠成長の夢)”の反映でもある。

若年層の失業率の上昇と仕事意欲の格差(過労の正規と低賃金の非正規との分離)や労働者の平均所得の下落、グローバル競争の激化などが、資本主義と進歩主義が紡いできた世代間の発展持続の夢を潰そうと圧力を掛けてくるが、現代を生きる親たちには自分たちが最も無難な成功戦略と信じてきたできるだけ良い学校からの就職以外の判断基準が見つけにくく、余裕があればそこにどうしてもお金を投じることにはなる。

『経済成長・完全雇用・職業適応(勤労意欲向上)の目標』に対して『非機能的な孔雀の羽根(差異のための差異の創出)』と化した教育は、従業員の保護や社会的貢献(財の再配分)の責務をできるだけ軽減したいとする大企業(財政コストの赤字削減に協力する姿勢を持たない公官庁)と歩調を合わせて、逆に『投資対効果(ROI)』を低下させるというシニカルな構造をも生み出しているのだが……